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安倍晋三の本命元号を潰した皇室 - 皮肉が重なって誕生した「令和」

「令和」はもともと安倍晋三の念頭にはなく、ドタバタの駆け込みで決まった元号だった。その真実が少しずつ分かってきた。2日のTBSワイドショーに出演した田崎史郎が裏話を披瀝し、「令和」が元号案として登場したのは3月20日頃とかなり遅く、安倍晋三が気に入る案がなく再提出を依頼した結果、出てきたのが「令和」だったと語っている。この話には注目してよい。毎日の3月24日の記事を見ると、菅義偉が「考案者の皆さま方に3月14日、正式に委嘱した」とある。24日は日曜日で、この日、菅義偉は選挙の応援で九州に飛んでいて、出先でこの発言をしてNHKに撮らせていた。そのニュースを見たとき、オヤと不思議に思ったのである。何でこんな遅いタイミングで考案者に委嘱なのだろうと。3月1日の日テレの報道を再確認すると、「新元号"絞り込み"最終段階・・・日本古典も」という見出しで次のように書かれている。「『平成』に代わる新たな元号の発表まで1か月となった。政府はこれまで、複数の有識者に新元号の考案を依頼していたが、1日までに候補が出そろい、絞り込み作業が最終段階に入ったことが分かった」。

この時期、NHKの岩田明子も同じことを言い、元号は十数案に絞られたと話していた。無論、絞り込みは安倍晋三がやることで、誰か別の人間が行うわけではない。この「報道」の意味は、安倍晋三が本命案を決めたということで、後の三つ四つのサクラをどう絞り込むかこれから決めるということである。このとき、「令和」は十数案の中になく、中西進は考案者の中に入ってなかった。4月1日の共同の記事にこうある。「中西氏は共同通信の取材に、当初は明言を避けていたが、公表が近づいた3月上旬になって『私は関係していない』と否定している」。これは嘘ではあるまい。本当に関係していなかったのだ。3月1日の時点で、中西進は考案委嘱者の任から外れたことが政府担当から告げられたため、マスコミにも正直に「私は関係していない」とコメントしたのだろう。そこからどんでん返しが始まり、3月中旬になって正式に中西進に委嘱の依頼が来るのである。明確に分かることは、3月1日から中旬の間に安倍晋三が決めていた本命案が潰れたことだ。本命案が潰れたから、やむを得ず中西進に泣きつき、慌ただしい流れで「令和」に漂着したのである。

わずか2週間という短い時間で「令和」が浮上し、時間切れの混乱の中でバタバタと決着した。決めたのは安倍晋三だが、安倍晋三にとっても決して本意ではない決定である。無論、残りの5案(英弘、久化、広至、万和、万保)はサクラであり、体裁を整えるための刺身のつまに他ならない。有識者の面々は、安倍晋三が決める安倍元号をオーソライズするための雛壇衆でしかなく、彼らには直前に、会議本番では「令和」を推すようにと指示が届いている。果たして、安倍晋三の本命は何だったのだろうか。それはどうして頓挫したのだろうか。簡単に推理すれば、「安久」とか「安永」とか「栄安」が本命だった可能性が高い。正月以降、マスコミとネットでは「安」入り元号を下馬評で推す声が充満し、予想ランキング上位などと既成事実化(空気固め)する動きがもっぱらだった。本命が何だったのかを探るのは難しいが、なぜ本命が潰れたのかを推測するのは易しい。それは、誰なら安倍晋三の本命案を潰すことができるかを考えれば、即座に解答が浮かぶからだ。安倍晋三がどうしてもこれにしたいと欲望する新元号を、それはだめだと阻止できるのは皇室(東宮)しかない。

他にはいない。想起するのは、政府が3月29日にマスコミに流した元号選定の方針で、そこで、「取り沙汰されている『安久』などの案について、政府関係者は『俗用の一種に当たるので、なるべく避ける』という情報が出たことだ。リークのレベルだが、ここで「安」入り元号がボツになったことが伝えられた。この時点で「令和」が決まっていた。3月29日は安倍晋三が皇居に参内し、さらに皇太子と面会した日だ。時系列を追って推理すると、2月22日に皇居と東宮を訪れた際、安倍晋三は意中の「安」入り元号案を提示、世間では人気が高いなどと売り込み、問題がなければこれで決めさせていただきたいなどと図々しく迫ったのだろう。その後、皇室(東宮)側から不可の意向が届き、3月中旬になって安倍晋三が本命を断念、中西進の万葉集案なら皇室(東宮)も了承してくれるだろうと妥協し、中西進に泣きついたという経緯が推察される。安倍晋三にとっても妥協案だが、皇室(東宮)にとっても妥協だった。おそらく皇室(東宮)は、オーソドックスな漢籍出典方式での選定を希望していたに違いない。「安」の字など論外で、国書出典に固執する右翼方式も迷惑だっただろう。

突飛な想像だが、中西進への本命委嘱そのものが、両陛下からの対案であり推挙だった可能性も考えられる。何となれば、中西進は「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動」の賛同者だからだ。いずれにせよ、中西進が正式に委嘱を受けたのは3月中旬であり、辛辣な皮肉が含意されているとしか思えない「令和」が提案され、時間切れで安倍晋三が採用して4月1日を迎えた。3月14日に依頼を受け、中西進が「令和」を返したのが3月20日前後だろう。田崎史郎の話と辻褄が合う。2月以前の段階で中西進がその他大勢の考案者候補に含まれていたのは確かで、「令和」以外にも漢籍由来の万葉集出典案を幾つか提案していたのかもしれない。3月中旬という納期ギリギリの時点で本命案の委嘱依頼が来たとき、中西進は全てを察知し、あるいは両陛下の側近(三谷太一郎とか)から事情を聞き、知識人らしく、意を決して、皮肉を込めて反骨のカウンター作品を投擲したのではないか。「梅花の宴」の序文は王羲之の『蘭亭序』のエミュレーションであり、字句は張衡の『帰田賦』を踏んだオマージュの技巧だった。さらに『帰田賦』には時代背景があり、政治への痛烈な批判が表現されていた。

新元号は「令和」で決まった。日本の歴史に残る。中西進は壮絶な文化的事業をやり遂げたと言える。まさに東洋の知識人の理念と本分を千年単位の巨大な歴史的スケールで再現し、勇気と矜持をわれわれと後世の人々に示し、面目を躍如して先行する偉人の列に加わった。屈原や司馬遷の群像に連なった。これほど数奇な運命で策定された元号が他にあっただろうか。今度の元号は、初めての国書出典(表面の形式上だけだが)であると同時に、知識人が政権批判のブラックユーモアを意趣して制作し、それが皮肉な政治的展開で採用になった初めての元号である。二重三重の皮肉と偶然が重なり、瓢箪から駒の抱腹絶倒の歴史が作られた。そこには、文学と歴史を知らないイデオロギー偏執狂の独裁者がいて、間もなく退位する賢く思慮深い、勇敢で胆力のある老天皇がいた。今回の元号選定は明らかに政局であり、歴史に残る一つの重要な政治戦だった。野党と左翼リベラルの現役文化人は最初から白旗を上げて降参し、独裁者の大勝利で終わるかに見えたが、天皇(皇室・東宮)が粘り、粘り腰の末に同齢の老知識人と謀って逆転勝利を遂げた。一矢を報いた。日本らしい政治ドラマだと思う。マスコミは悉く独裁者の側に与した。

この政局で真面目に闘争したのは日刊ゲンダイだけだった。共産党も何もしなかった。