人気ブログランキング | 話題のタグを見る

瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム

瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_10573377.pngこれまで瀬戸内寂聴の本は一冊も読んだことがない。訃報の折、平野啓一郎がネットに公開した寂聴との対談動画を見て、伊藤野枝の伝記小説である『美は乱調にあり』を読んでみた。1966年に文藝春秋の単行本として出た本が2017年に岩波現代文庫となって復刊されている。寂聴が94歳のときだ。その「はじめに」でこう語っている。「四百冊を超えているらしい自作の中で、ぜひ、今も読んでもらいたい本をひとつあげよと云われたら、迷いなく即座に、『美は乱調にあり』『階調は偽りなり』と答えるであろう」。寂聴文学の代表作だということだ。「この小説を書いて、『青春は恋と革命だ』という考えが私の内にしっかりと根を下ろした」という若者向けの遺言的メッセージも付されている。読後の率直な感想は、期待どおりの面白さだった。『美は乱調にあり』は、神近市子(当時28歳)が大杉栄への刃傷沙汰に及ぶ1916年(野枝21歳)の日陰茶屋事件で終わっていて、そこから甘粕事件に及ぶ7年間が『階調は偽りなり』に収められている。後半を読むのはこれからで、物語の展開が愉しみだ。



瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_10574511.png現代日本の思想的指導者だった寂聴の小説作品はどんなものだろうと、期待と不安が半ばだったが、文章はとても読みやすく、構成も叙述もオーソドックスで、読者の関心を離さず、読み始めるとぐいぐい惹き付けて一気に巻末まで進ませる。映画にしたい内容だ。期待どおりだったのは、男女の情愛に関わる描写部分の妙で、さすがに達人の寂聴だと納得させられた。津田英学塾の俊秀で、インテリで聡明この上なく、誰もが才能を認める最先端のキャリアウーマンだった市子が、短刀を抜いて殺人未遂という狂気と破滅に追い詰められる。この四角関係の凄絶なクライマックスと葛藤の描写は、やはり読む者を釘づけにする。何が野枝と市子を分けたのか。なぜ野枝は大杉を奪い取ることができたのか。野枝が四角関係に割り込んで勝利を得ると自惚れた自信の根拠は何だったのか。寂聴は明示的には書いてないけれど、どうやら肉体と官能の資質だと想像させる示唆が見え隠れしている。オスたる男のアホらしさと図々しさと浅ましさと、しかしその奪取と確保に人生を賭けて情熱的に狂奔する女の真実が描かれていて重く迫る。寂聴の世界に興奮し傾倒させられる。


瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_10590412.png小説は、寂聴が福岡に住む野枝の親類縁者を探して取材するプロローグから始まる。野枝のために塗炭の苦しみを背負わされた人々の証言を拾い、粗放でわがまま放題で血縁周囲に迷惑と苦労をかけ続けた生前の野枝の人物像をスケッチして紹介する。読者にはネガティブな印象から出発させる。そこから一転して、上野女学校時代から辻潤との同棲、青鞜社への参加と活動のくだりは、大正期に勃興した女性解放運動と軌を一にして、日本の女性の目ざめと重なって野枝の成長が描かれてゆく。筆運びは、活発旺盛に知識を得て飛翔する野枝に内在的に進行する。が、大杉栄との出会いの頃から、寂聴の筆は野枝に次第に冷淡になり、最初に親類縁者が証言したふしだらな人物像の方が再び前景に戻る。千葉の宿で放縦に大杉との情事に耽り、生活資金がなくなって、辻潤との二人目の子ども(赤ちゃん)を里子に出すという愚を平然と犯す野枝に、寂聴は自身の過去の罪を重ねているのだろう。赤ん坊を異郷の地で放り捨て、野枝は四角関係の闘争勝利に精を出し、アナキスト革命家としての人生にだらしなく没入していく。寂聴の目は神近市子の方に同情的だ。


瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_10592080.pngこの小説で勉強になるのは青鞜社の歴史であり、青鞜に集まった個性的で魅力的な「新しい女」たちの群像である。私はこの周辺にほとんど無知同然だったので、大いに蒙を啓かれ、関心の端緒を持つこととなった。ジェンダーの時代、この時期の女性解放運動史と人間模様の理解は現代人の必須の教養の如くであり、それを仕入れることが読書の動機の一つだったと言える。もう残りの人生の時間も多くないから、とにかく、知るべきことで欠けていることは早く吸収して(自己満足であっても)養分にしないといけない。10代の田舎娘の野枝以上に私は焦っている。寂聴は無知な読者を青鞜入門に導いてくれる。1966年のこの本は寂聴の青鞜研究序説であり、その後のアカデミー内外の青鞜研究の基礎資料となった作品だ。読者は、青鞜の「新しい女」たちの輝きに目を細める寂聴と一つになり、一人一人の長所と欠点を見つめるところとなる。女性が同性を庇う目で。また、女性が同性を冷たく粗探しする目で。刃傷という愚行に及んだ神近市子はかわいく見える。2年の刑に服役して出獄し、戦後は左派社会党の代議士となり、売春禁止法の成立に尽力した。堂々の人生を歩んで社会に貢献した。


瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11030747.png今、こういう大型のスケールの女傑はいるだろうか。だが、何と言っても魅力の中心に描かれているのは平塚らいてう(明子)のカリスマだ。明子がどれほど巨大なカリスマ的存在だったかを寂聴は説得的に述べている。他の女たちはお花畑の諸種の花々で、明子は背の高い向日葵であり、首を回して太陽を仰いでいたのだと。明子の魅力は第一に美貌にあり、旧幕臣で高級官僚の家で育ったお嬢様の気品と知性であり、世間の若い女たちの憧れで、同性愛(レズビアン)的な衝動で接近する者も多かった。その偶像の明子が「若い燕」の奥村博史と恋愛に落ち、情報が漏れてゴシップを撒かれ、そして逆に、その俗悪な世評に挑戦するように「新しい女」路線を純化させ、文筆で戦闘したところから青鞜は次第に求心力を失っていく。明子のファンが離れてしまった。この時期、青鞜だけではないが、文芸雑誌は何やら今の女性週刊誌の中身を併せ持った気配があり、文士たちは恰も芸能タレントの如くで、自分たちのプライベートな自由恋愛を奔放に誌上に暴露し、醜聞の抗弁や批判や論評を演じ合う。恥も外聞もなく。平野啓一郞も怪訝に紹介していたが、現在とはずいぶん時代が異なっていて、不思議な感覚にさせられる。


瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11120260.pngそれは、ある種、大衆の俗情に寄り添って市場の部数を稼ぐビジネスの論理と思惑からの必然性だったのだろうか。よく分からないが、彼らは絶え間なくそれをやり、痴情悶着の暴露応酬をエスカレートさせ、青鞜はおそらくその影響で本来の価値を減価償却して行ったと思われる。近代女性の理念理想にフォーカスした文芸同人誌から、よりラディカルな社会変革思想の方向に旋回し、政府官憲の治安上の干渉と取締りを受けたことに加えて、男女の醜聞ネタの要素が全開になったことが、青鞜が急速に支持を失って衰えた原因ではないか。寂聴の筆からはそう読み取れる。だが、実際、青鞜の女流文士たちだけでなく、自然主義や白樺派の文豪巨匠たちも同じことをやっていて、それが当時の文学文壇のリアリティそのものだった。今年前半、太宰治の真実を知り得たことが契機になって、私はこの方面に興味を持って追っている。不可解で倒錯としか思えない日本文学の悪習と病癖。なぜこんな奇態になっているのだろうか。どうも、そこには夏目漱石の影があるのだ。明子自身が、青鞜創刊の前に森田草平とのスキャンダルの禍に遭っている(1908年の塩原事件)。この事件を門下の弟子の森田草平に小説にして書けと指導したのは漱石だった。


瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11062420.pngなぜそのように指示したかというと、森田草平に才能がなく、創作の題材を見つけて物語を織り上げる力がなかったからである。手っ取り早く私的な情痴事件を書いてみいと指導した。漱石一門で東大文学部の文学エリート(文学官僚)である以上、売れない作家というわけにはいかなかったからだ。おそらく、こんな感じで「日本文学」の「業界」が組み上がっていて、太宰治は典型的にその延長上にある。それがスタンダードだったのだ。手頃な標的を見つけて恋文を書きまくり、返信を友人に見せびらかし、その後のラブゲームの波乱と顛末を小説化して売文する。新聞記者にリークして醜聞を囃させ宣伝する。という、それが文壇と業界の標準スタイルだったのだ。だから、みな標準プロトコルを疑わず、明子たちも疑わず標準仕様に準拠したのである。そのとき、文士は芸能人であり、私生活は観客に見せるステージである。市場の大衆もその「文学」標準を娯楽として消費した。恋文を一日に3通も書いて投函するというエネルギッシュな活動は、恋愛の目的を得ること以上に、おそらく、文学的な自己陶酔と自己実現と、文章表現の訓練と上達の狙いがそこにあったのではないか。そう推測する。恋文を書きながら、売れる作家となる練習に励み、商売で売り出す小説のネタを仕込んだのだ。


だから、ある意味で、自分が書いて投函する恋文は公開のリスクが前提だ。と、ここまで考えを巡らせ、近代日本文学の究極の謎を解き明かしたような天狗の気分で悦に入ったとき、ふと思い浮かんだのが、実は古代日本もそうだったのではないかという本質的な問題認識だった。万葉集の相聞歌の一つ一つは、具体的な秘めた恋愛の過程で生まれたもので、私信の投擲と表現だったはずである。倒錯は正調なり、なのだろうか。



瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11374374.png
瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11070212.png
瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11071211.png
瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11224803.png
瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11262709.png
瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム_c0315619_11240209.png

by yoniumuhibi | 2021-11-26 23:30 | Comments(1)
Commented by 長坂 at 2021-11-27 11:03 x
小説として、面白いですよねえ。一気に読ませますね。20年ぐらい前に大逆の菅野須賀子「遠い声」から始まって大杉、伊藤、「余白の春」の金子文子、文壇物で田村俊子に岡本かの子と、一時期読み漁りました。それぞれ詳細は全然覚えて無いんですけれど。Blue Stocking のらいてうや神近市子はリーイン・フェミニズムだし、男女のドロドロは、今色々問題になってる運動内でのセクハラに通じるところがありますよね。私はハマりにハマり、野枝の最初の夫であるダダイストの辻潤の本や大杉との娘「ルイズー父に貰いし名は」を読んだりしました。最近は甘粕も一応きちんと読んでおきたいかなと。
私は正直、寂聴さんより瀬戸内晴美でいて欲しかったし、文化勲章蹴っ飛ばして欲しかったですね。


メールと過去ログ

since 2004.9.1

ご意見・ご感想




Twitter

最新のコメント

今こそ「テニスコートの誓..
by 印藤和寛 at 09:18
総裁選で石破さんを倒すた..
by 人情味。 at 09:29
もし山上容疑者が安倍元首..
by 人情味。 at 21:23
杉田水脈なる人物は論評に..
by 住田 at 10:51
あれは15年程前..
by ムラッチー at 11:27
悪夢のような安倍政治から..
by 成田 at 13:03
ハーバード大学で比較宗教..
by まりも at 23:59
重ねて失礼いたします。 ..
by アン at 17:48
安倍晋三のいない世界は大..
by アン at 13:16
今まで、宗教2世の問題に..
by さかき at 10:31

以前の記事

2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月

記事ランキング