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日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』

日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_14163627.png権威主義とは、元来は政治支配における「被治者の思考態様」の問題だった。その概念がいつから現在のように政治体制の類型の意味に変容し、非民主主義の体制の総称に変わったのか、アジア経済研究所の記事に簡単な説明が載っていて、近代政治体制を民主主義・権威主義・全体主義の3類型に整理したJ.リンスの所論 - 『全体主義体制と権威主義体制』 - が紹介されている。曰く、

民主主義と全体主義の間の中間形態が権威主義であり、その特徴は「限定された多元主義」です。より具体的には、支配的な特定組織(政党、軍など)とは異なる政治主体の存在を許容する一方、結社や政治活動に強い制限を課す政治体制を指します。現在世界に存在する非民主主義体制の大部分は、権威主義体制に分類することができます。

とあり、ここからは権威主義の古典的概念であるところの尾形典男的な原義、すなわち「被治者の思考態様の問題)という要素が完全に消え、概念が改鋳されていることが分かる。権威主義は体制分類の用語に化けた。




日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_14093523.pngが、リンス以前にもこの意味で権威主義を用語していた例があり、それは1989年に書かれたF.フクヤマの『歴史の終わり』である。前回の記事で、概念変容の「犯人捜し」の必要を言ったとき、念頭に浮かんだのはフクヤマだったが、読み直してやはり図星だった。恰も中華思想の如き認識態度でリベラル・デモクラシーの普遍的標準型が据えられ、それとは異質な周辺の政治社会モデルに対して権威主義という概念が与えられている。今回、『歴史の終わり』を読み直して発見したのは、フクヤマが日本を権威主義の内実の国として不審視し警戒していた事実だった。現下の緊迫する米中冷戦の情勢を鑑み、そこに絡む権威主義の言説のイデオロギー状況を踏まえて、看過できぬ問題だと思われるので、この機会に指摘したい。リベラル・デモクラシーの司祭であるフクヤマの視線からは、当時の日本は、形式的にはリベラルな民主主義、実質的にはアジア的な権威主義という、いわば、昔の講座派の語法を倣って表現すれば、半権威主義体制とも言うべき範疇で規定される国だったのだ。引用しよう。


日本の民主主義は、欧米の基準からはどこか権威主義的に見える。(下巻 P.112)

今日までアジア社会の多くは西欧のリベラルな民主主義の原理に対して少なくとも口先では賛意を払い、その形式は受け入れつつも、中身はアジアの文化的伝統に適するように修正してきた。(略)リベラルな民主主義に対するアジアの組織的な拒絶の萌芽は、リー・クアン・ユーの空理空論的な発言や石原慎太郎のような日本人の著作からもうかがえる。もしも将来このような民主主義以外の原理が出現するとしたら、そこでは日本が決定的な役割を果たすだろう。というのもこの国は、すでにアメリカに代わってほとんどのアジア諸国における近代化のモデルとなっているからである。(同 P.116)

アジアの新しい権威主義もおそらく(略)、その専制支配は、人々がより大きな権威に従い、一連の厳格な社会的規範へと画一化を進めていくような、服従の帝国という形をとるだろう。(略)アジアの新しい権威主義に示される服従の帝国は、前代未聞の繁栄を生み出すかもしれないが、それはまた大部分の市民にとっては幼年時代が長引くことであり、したがって「気概」が中途半端にしか満たされない状態を意味するのである。(同 P.116-117)


日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_14004751.pngここでフクヤマが「専制支配」と言っているのは、トクヴィルの「多数者の専制」の文脈であり、アジアの新しい権威主義は、政治経済の現場において「多数者の専制」として機能するのだという分析が示されている。30年前に書かれたこの文章の「アジアの新しい権威主義に示される服従の帝国」の件(くだり)をいま読むと、読者は誰でも中国のことを念頭に思い浮かべる。だが、この時点で、フクヤマが念頭に置いていたのは中国ではなく日本であり、形式は民主主義で実質は権威主義である日本の影響力がアジアを帝国的に覆う事態を恐れていたということになる。実際のところ、30年経って、フクヤマの危惧は現実のものとなり、日本ではなく中国という「権威主義」の「服従の帝国」が圧倒的な力で立ち上がり、リベラル・デモクラシーに挑戦しているという景観になる。「石原慎太郎の著作」というのは『宣戦布告 Noと言える日本経済』のことだ。この時期、日本は確かにアメリカから独立した経済と政治を持った国だった。経済が絶好調の時期であり、媚米でも属国でもなかった。経済社会文化は独立して繁栄していた。


日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_14100678.png久しぶりに『歴史の終わり』を読み返したが、その感想は30年前に本屋で立ち読みしたときと同じで、ただの軽薄で低俗な反共プロパガンダ書という印象しか持てない。知的興奮を覚えない。退屈で散漫な本だ。渡部昇一とか岡崎久彦とか中西輝政とか、せいぜい西尾幹二と同じ産経文化人の類であり、知識の深みと知的思想的センスの鋭さでは西部邁の方が上だろう。それ以上に、今回強く感じたのは、フクヤマのアジア諸国に対する蔑視と偏見という問題だった。フクヤマをはじめとして、リベラル・デモクラシーの法王庁たる欧米のアカデミーでリベラル・デモクラシーを司る司祭たちの物言いには、明らかに中華思想の観念と意識があり、自由主義・民主主義の思想と制度を後発で導入したアジア諸国を見下した差別の視線がある。一世紀前に非ヨーロッパ世界を蔑視した宗教社会学を成したウェーバーの物言いに雰囲気が似ているし(比較するのがウェーバーに気の毒なほど些末だが)、フクヤマの「気概」というキー概念は、プラトンから引き出したと言うけれど、ウェーバーの「エートス」「資本主義の精神」の焼き直し、あるいは方法的模倣だろう。


日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_14331742.pngリベラル・デモクラシーは人類の普遍的原理だと言いつつ、その審判権は「法王庁」の独占なのだ。フクヤマは日系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持つ。日本語は全くできないが、血統的にはほとんど日本人と言っていいエスニシティの人間である。そのプロフィールを見て思い出すのは、ケニアの黒人を父に持ち、インドネシアで育ったオバマの日本を徹底的にバカにした態度だ。精神の深層に何かがある。オバマの日本侮蔑はひどかった。ルーツが純粋なアメリカではなく異質であり、顔の色や形がアメリカ・ヨーロッパの白人と異なるほど、強烈にリベラル・デモクラシーに帰依し、リベラル・デモクラシーの神を拝跪し、それ以外の神を信仰する人々を無価値な愚衆と決めつける心理になるのだろうか。フクヤマが依拠するのがヘーゲルという点も、今日のレイシズム批判・異文化理解のレンズとインタレストからすれば無視できない思想的問題だろう。ヘーゲルこそまぎれもない西洋中心主義の巨魁で、西洋優越の独善的な歴史認識を確立させた哲学者だった。


日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_15340106.png歴史を人類が理性によって現状を克服し、精神の自由を実現させていく過程だと捉える歴史観は、ヨーロッパに限定された教義であり、その人類主体はヨーロッパ人以外は含まれない。アジア人は、精神の自由をヨーロッパ人に啓蒙される劣性の人種だった。ヘーゲルの歴史観はフランス革命の歴史的意義を弁証する近代思想であると同時に、ヨーロッパ列強による侵略と植民地支配を正当化し、人種差別と不平等を合理化し、その野蛮で非人道的な暴力と収奪の行動に理論的根拠と確信を与える思想でもあった。その性格を想起し確認する必要がある。中国やインドの人々の立場に立てば、およそ是認することは不可能な歴史観だろう。ヘーゲルが『歴史哲学講義』において中国をどのような存在として総括しているか、中国の歴史をどのような概念で本質的に捉えているか、丸山真男の1940年の処女論文(徂徠学第一論文)の冒頭に、それを抜粋した部分があるので、丸山真男集第1巻から引用しよう。屡々議論に上るところの有名な一節であり、大学時代の講義や演習を思い出して懐かしい。


シナ及び蒙古帝国は神聖的専制政の帝国である。ここで根底になっているのは家父長制的状態である。一人の父が最上に位していて、われわれなら良心に服せしめる様な事柄の上にも支配を及ぼしている。この家父長制的原理はシナでは国家にまで組織化された。・・・・・・シナにおいては一人の君主が頂点に位し、階統制の多くの階序を通じて、組織的構成をもった政府を指導している。そこでは宗教関係や家事に至るまでが国法によって定められている。個人は道徳的には無我にひとしい。

日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_15393145.png故にそこに存在しているものは、まずなによりも国家 ー 主体がいまだ己れの権利に到達せず、むしろ直接的な、法律なき人倫態が支配している如き国家 ー であり、それは歴史の幼年時代である。かかる形態は二つの側面にわかれる。第一の面は家族関係の上に築かれている国家、訓戒としつけによって全体を秩序づけている国家であり、そこでは対立や理念性がいまだ現れていないから、いわば散文的な帝国である。と同時にそれは持続の帝国であり、いいかえればそれは己れを己れ自身から変化させることができない。これこそ背部アジアの、主としてシナ帝国の形態である。ところが他方においてかかる空間的な持続に対して、時間という形式が対立する。

日本を権威主義の国の範疇に入れていたF.フクヤマの『歴史の終わり』_c0315619_10151012.png諸国家は自己の内部では、すなわち自己の原理では変化しないのに、国家相互の間では絶えず変化し、止むことなき抗争を続け、かかる抗争は諸国家の速やかなる没落を準備する。・・・・・・・したがってかかる没落は決して真実の没落ではない。けだしこうした一切のやむことなき変化を通じてなんら進歩が行われていないからである。没落せるものに代わって登場した新しいものもまた、没落し行くものへと沈淪してしまう。その間なんらの進歩もみられない。こうした動揺はいわば非歴史的な歴史である。(P.127-129)


フクヤマの『歴史の終わり』は、共産主義に対する自由民主主義の勝利宣言の書であり、マルクス主義の敗北を思想史的に意味づけ、リベラル・デモクラシーの絶対性・普遍性・永久性を強烈に説いたネオコンの立場の書だが、同時に、そこにはヘーゲル主義の歴史認識の契機があり、アジア地域の諸国に対するナイーブな偏見が滲み、ステレオタイプな思考が潜んでいる点を見逃せない。リベラル・デモクラシーとは何か、その正体は何か、90年代以降その思想を全面的に受け入れて自己改造し、無媒介結合の一体化を果たした日本がどうなったか、そのことをもう一度思い返す必要があるように思う。ネオリベラルという言葉があるが、どうやらわれわれは、ネオデモクラシーという概念を開発し、定義を与えて議論するべきではないか。リベラルとネオリベラルが異なるように、デモクラシーとネオデモクラシーも異なるのだ。ソ連崩壊以降に出現したフクヤマ的な怪しげな「デモクラシー」の言説が、ネオデモクラシーなのである。


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by yoniumuhibi | 2021-03-25 23:30 | Comments(2)
Commented by 水上高原 at 2021-03-25 23:44 x
本当に素晴らしい文章。有難うございます。
読売新聞で、ユーラシア・グループのイアン・ブレマーが、「中国がトップに立つことは許されない」と発言しているのを読んで、なぜそこまで中国を否定するのか? 中国がGNPトップになることを恐れるのか? 分からなかったのですが、この文章でわかりました。
要するにヨーロッパ人(白人)は哲学を定義し、解釈をする者だと。非ヨーロッパ人(非白人)は、我々が定義した哲学をただ、受け取り、盲信・模倣していけばいい存在なのだと。もし中国が自分達より上位に来ると、自分達の拠り所のルーツである哲学を非白人達が批判・否定するのではないかと。それを恐れているということですね。中国人やインド人が、ヘーゲルやウェーバーを否定し、非難する時代が来ることを恐れているということですね。
もしそうなれば、自分たち(白人)が(非白人)に対して持っている優位性・正当性が否定されてしまう。それは絶対に阻止しなくてはならない。こういう論理なのですね。
でも、彼ら(白人)は分かっているのでしょうか? その論理こそが、世界で差別が無くならない。戦争が無くならない。貧困が無くならない。その根本的な原因ではないですか?
Commented by 輪ゴム at 2021-03-26 09:55 x
文豪ソルジェニーティンはゴルバチョフよりもラディカルな改革を提案し、もっと自由化を進めなければソ連は崩壊すると言っていましたが
ソ連崩壊後、国によって事情が違うのだから、ロシアは欧米の制度をそのまま真似する必要はないとも書いていました

当時の私は自由の闘士が偏屈なナショナリズムに墜ちたと落胆してしましたが
今思えば、アメリカが歴史の勝者としてショックドクトリンで各国を荒らすのを見て、理想の民主国家モデルと考えるわけがないですね
収容所に入っている時でさえ、欧米の世俗主義に懐疑的でしたし


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