アーレントの革命論の誤謬と破綻 - OWSとBLMが導くアーレントの学説崩壊
アーレントのレイシズムの疑惑について、政治思想史学会が7月に出した会報に時宜を得た情報が載っているのを見つけた。アーレント研究者である立命館の百木漠が、2014年に発表されたキャサリン・ガインズの著書(Hannah Arendt and the Negro Question)の書評を寄せていて、その中で重大な問題が指摘されている。タイトルも「アーレントは黒人差別主義者だったのか?」。一部を引用しよう。
非常に衝撃的な告発だが、米国ですでに6年前にガインズの本が刊行されているのだから、米国の学界や論壇では注目されて議論が進んでいることだろう。松本礼二と河出良枝が放送大学の教材で整理するアーレントのアメリカ革命論を見て、そこに黒人やインディアンの犠牲への憐憫や仁恕がなく、それが「犠牲なき美しい革命の理念型」として捉えられ、一方的な美化と礼賛になっている点を訝しく感じた。彼女の歴史認識には人種差別の要素があるに違いないと直観したが、その推察が当たっていたようである。虐殺されたインディアンの数は950万人という推定値があり、北米に居住していた全人口の95%が虐殺されたという説がある。この数は、スターリンの粛清による犠牲者数とされる2千万人と比して決して少なくなく、フランス革命の犠牲者数とされる200万人よりはるかに規模が大きい。松本礼二とトクヴィルとアーレントが称揚するアメリカ革命は、新大陸での理想の政治体制の実現にとって邪魔者であったインディアンを950万人も殺滅して排除した歴史過程だった。ロシア革命と同じではないか。
レイシズムの問題視角からのアーレント批判、あるいはアメリカ革命の再考と思想的再検証は、今後も議論が進み、現在の日本と世界で標準的な価値観として定着している「リベラル・デモクラシー」の概念を揺るがすだろう。シンボルへの信仰を掘り崩して行くことだろう。ここでは、アーレントの革命論を特徴づけるもう一つの問題に着目し、それがやがて誤謬と偏見として総括されていくに違いない展望について論じたい。それは、フランス革命とロシア革命の意義を否定する彼女の視座であり、その根拠として持ち出されるところの、「貧富の差や極端な困窮の問題」の所在という論点である。アーレントは、革命は純粋に政治体制の構築のための試みでなくてはならず、自由と民主主義の実現のための営みでなくてはならないと言うのだ。そこに、貧富の差の解消だとか、底辺層の生活困窮からの脱出だとか、そうした「社会問題」のフェーズが入ってはならないと言うのである。つまり、25条的な目的を民衆が要求して蜂起した革命はだめなのであり、経済社会的な動機で立ち上がった革命は争乱と破壊と殺戮に結果すると切り捨ててしまう。
アーレントが認めて讃える革命は、政治の枠内に限定された自由と民主主義のための革命なのであり、政治体制を合理的に結実させる革命で、そこに大衆の飢餓だの生活苦だの分配要求だのの契機が混入してはだめなのだ。それが革命のエネルギーの主力になると、ジャコバン派(ロベスピエール)やボリシェヴィキ(レーニン・スターリン)が権力を握ってテロ独裁へと導かれるのであり、暴力と流血の不毛な惨劇に終わらざるを得ないと、そう結論づけるのである。すなわち、革命に階級闘争の要素があってはならず、階級対立なり階級闘争を革命に持ち込んではならず、革命は純粋に政治制度の構築や政治的権利の獲得をもたらすものでなくてはならない。革命が達成すべき自由と平等は、政治的な自由と平等なのであり、経済的な抑圧と収奪からの解放であってはならないのだ。それがアーレントの革命論であり、その論理と主張から、フランス革命とロシア革命は失格となり、アメリカ革命が合格となって理念型化される。そのアーレントの政治理論が、この四半世紀の日本の社会科学全体を規定する基準(=脱マルクス知の根本教義)となった。
かかる所与と前提の下で、現在の大学で社会科学の研究や教育が行われ、アーレントの理論を無謬の哲理として世界を見る者たちが犇めいているわけだが、それでは、その常識から、9年前のアメリカのオキュパイ・ウォール・ストリートはどう映るのだろうか。アメリカの抗議者たちがそこで要求したのは、Tax the Rich であり、デモで示した立場と認識は We are the 99% であった。明らかに、オキュパイ・ウォール・ストリートは格差と経済的不平等に反対する運動であり、資本主義に規制をかけようとする運動である。新自由主義による過剰な搾取に抵抗する労働者の運動であり、資本主義がもたらした矛盾と弊害を克服し、問題解決を図ろうと試みた庶民の運動だった。畢竟、社会主義の性格と動機を持った運動であり、次の地平を模索する挑戦だった。その動きは一過性のものに止まらず、5年後のサンダース旋風となって吹き荒れ、活力を漲らせたまま今日まで続いている。アメリカの若者の70%が社会主義を是認し、積極的に肯定・評価し、未来の選択肢として視野に入れている。アーレント(主義者)は、このアメリカの現実を見て何と言うだろうか。
9年前のオキュパイ・ウォール・ストリートは、現代アメリカで起きた革命未遂の事件だった。彼らは、群衆による占拠によってNY証券取引所を麻痺させ、株式市場を強制的に停止させ、グローバル資本主義の活動(ドルマネーの循環と蓄積)を封殺しようとした。実現していれば、巨大な混乱が起き、空前で怒濤の革命劇が展開する刻一刻となっただろう。オキュパイ・ウォール・ストリートのデモでは、Revolution の語が入ったサインボードが目につき、資本主義を批判するスローガンやメッセージが多かった。Class War(階級闘争)という言葉も多く使われ、アメリカでこれほどマルクスや社会主義の思想が日常に根づいているのかと驚かされた。それらが禁止語になって廃絶されている日本との彼我を印象深く感じたものである。アメリカの報道で Working Class という言葉が登場しても、日本のマスコミはそれを「労働者階級」とは説明しない。NHKはそれを「労働者たち」と日本語訳してニュースを欺瞞して処理する。オキュパイ・ウォール・ストリートの市民は、自分たちの民主主義の伝統に則り、This Is What Democracy Looks Like とコールした。
そこでは、民主主義と社会主義は矛盾なくハネムーンしている。どちらかに無理に引き寄せて解釈する余地はない。その必要もない。彼らが即いたのはルソーであり、直接民主主義のジェネラル・アセンブリーが大真面目に実践されていて(傍目からはプリミティブに見えたが)、民主主義と社会主義を新次元の先端的環境で化学合成させる実験と鋭意が見て取れた。彼らは近現代思想をマイグレーションする試行錯誤をやっていたと言え、ズコッティ公園は思想開発の前衛的な演習場だったと言える。(1)ヨーロッパ近代伝統の思想、(2)アメリカ民主主義の思想、(3)ネグリ的なオートノミーの思想、などなど。アメリカ民主主義の運動の延長上にオキュパイ・ウオール・ストリートが出現したことを否定する日本の論者はいない。左派の者たちは、マルクスが、最初に社会主義革命が起きるのは最も資本主義が発達した国だと予言した言葉を思い出した。トクヴィルが専門の保守主義の論者たちも、期待と希望を持ってズコッティ公園の様子を窺っていた感がある。日本からの積極的視線に例外はなく、エドマンド・バーク的な辛口批評の者はアカデミーにはいなかった。
松本礼二と河出良枝が強調するアーレントの言説では、革命とデモクラシーは峻別されるべきものであり、革命で社会経済的・階級的な果実は求めてはならぬと戒める。だが、現実のアメリカ市民の民主主義の革命行動は、Tax The Rich を正面から求め、グローバル資本主義の中枢現場の占拠を実行目標としたのである。革命とデモクラシーの峻別などなく、経済的な利害と課題からの革命行動がアメリカ民主主義の発動と表現そのものとなった。それはすでに9年前に全米で起きた事実である。彼らは純粋に公的領域でデモクラシーの活動をし、それは純粋に革命行動であった。資本主義の矛盾を克服・解決する人民の運動だった。9年前の時点で、アーレントの革命論の破綻は明白になったのであり、政治を考察し判断する概念装置として無効になっていたのだ。われわれは、そのことを率直に認めなければならない。加えて、今回のBLMの運動は、アーレントの政治学説全体を失墜の淵に追いやっている。アーレントの政治哲学を、レイシズム(=白人至上主義)の視座と回路によって為された知的産物として総括し、揚棄せざるを得ないところに現代人を到達させている。
アーレントが社会科学の主神の地位から没落し、アカデミーの神殿に鎮座していた偶像が撤去される日も近い。アーレントは、結局、冷戦期アメリカを正当化する反共保守主義のイデオローグでしかなかったのではないか。OWSとBLMの二つの出来事はそのことを示唆している。
アーレントの黒人差別問題として最も有名なのは「リトルロック事件の考察」であるが、本書ではそれ以外にも『全体主義の起源』『人間の条件』『革命について』『過去と未来の間』『暴力について』などの著作を横断的に扱いながら、アーレントが一貫して黒人差別主義的な考えを持っていたことが強調される。そのいずれもが堅実な読解に基づいており、説得的な議論が展開されるため、アーレントに好意的な読者にとっては、啓発的であるとともに少々ショッキングな内容でもある。(略)リトルロック事件から10 年以上経ってなお、アーレントが黒人に対する差別的な偏見を持ち続けていたことは明らかである、とガインズは主張する。
結局のところ、アーレントは黒人問題(Negro Question)を白人の問題(White Problem)としてではなく黒人の問題(Negro Problem)として捉えており、無意識のうちに白人たちを免責し、黒人たちの側に責任を押しつけている(序章)。(略)アーレントは晩年の『カント政治哲学講義』において、不在の他者を構想力を用いて現前させ、他者の立場にも立ちながら複数的に思考することが重要だ、と論じていたにもかかわらず、その他者に黒人たちは含まれていなかった、ということになるのではないか。と、ガインズはその考察をアーレントの判断力論にまで拡張している(結論部)。アーレントにとって、差別や貧困に苦しむ黒人たちは公的領域に現われえない、不可視の人々だったのだ、と。こうしてガインズは、『全体主義の起源』から『カント政治哲学講義』に至るまで、アーレントの思想には黒人に対する差別的偏見が底流しており、そこに弁明の余地はない、と断定する。
非常に衝撃的な告発だが、米国ですでに6年前にガインズの本が刊行されているのだから、米国の学界や論壇では注目されて議論が進んでいることだろう。松本礼二と河出良枝が放送大学の教材で整理するアーレントのアメリカ革命論を見て、そこに黒人やインディアンの犠牲への憐憫や仁恕がなく、それが「犠牲なき美しい革命の理念型」として捉えられ、一方的な美化と礼賛になっている点を訝しく感じた。彼女の歴史認識には人種差別の要素があるに違いないと直観したが、その推察が当たっていたようである。虐殺されたインディアンの数は950万人という推定値があり、北米に居住していた全人口の95%が虐殺されたという説がある。この数は、スターリンの粛清による犠牲者数とされる2千万人と比して決して少なくなく、フランス革命の犠牲者数とされる200万人よりはるかに規模が大きい。松本礼二とトクヴィルとアーレントが称揚するアメリカ革命は、新大陸での理想の政治体制の実現にとって邪魔者であったインディアンを950万人も殺滅して排除した歴史過程だった。ロシア革命と同じではないか。
レイシズムの問題視角からのアーレント批判、あるいはアメリカ革命の再考と思想的再検証は、今後も議論が進み、現在の日本と世界で標準的な価値観として定着している「リベラル・デモクラシー」の概念を揺るがすだろう。シンボルへの信仰を掘り崩して行くことだろう。ここでは、アーレントの革命論を特徴づけるもう一つの問題に着目し、それがやがて誤謬と偏見として総括されていくに違いない展望について論じたい。それは、フランス革命とロシア革命の意義を否定する彼女の視座であり、その根拠として持ち出されるところの、「貧富の差や極端な困窮の問題」の所在という論点である。アーレントは、革命は純粋に政治体制の構築のための試みでなくてはならず、自由と民主主義の実現のための営みでなくてはならないと言うのだ。そこに、貧富の差の解消だとか、底辺層の生活困窮からの脱出だとか、そうした「社会問題」のフェーズが入ってはならないと言うのである。つまり、25条的な目的を民衆が要求して蜂起した革命はだめなのであり、経済社会的な動機で立ち上がった革命は争乱と破壊と殺戮に結果すると切り捨ててしまう。
アーレントが認めて讃える革命は、政治の枠内に限定された自由と民主主義のための革命なのであり、政治体制を合理的に結実させる革命で、そこに大衆の飢餓だの生活苦だの分配要求だのの契機が混入してはだめなのだ。それが革命のエネルギーの主力になると、ジャコバン派(ロベスピエール)やボリシェヴィキ(レーニン・スターリン)が権力を握ってテロ独裁へと導かれるのであり、暴力と流血の不毛な惨劇に終わらざるを得ないと、そう結論づけるのである。すなわち、革命に階級闘争の要素があってはならず、階級対立なり階級闘争を革命に持ち込んではならず、革命は純粋に政治制度の構築や政治的権利の獲得をもたらすものでなくてはならない。革命が達成すべき自由と平等は、政治的な自由と平等なのであり、経済的な抑圧と収奪からの解放であってはならないのだ。それがアーレントの革命論であり、その論理と主張から、フランス革命とロシア革命は失格となり、アメリカ革命が合格となって理念型化される。そのアーレントの政治理論が、この四半世紀の日本の社会科学全体を規定する基準(=脱マルクス知の根本教義)となった。
かかる所与と前提の下で、現在の大学で社会科学の研究や教育が行われ、アーレントの理論を無謬の哲理として世界を見る者たちが犇めいているわけだが、それでは、その常識から、9年前のアメリカのオキュパイ・ウォール・ストリートはどう映るのだろうか。アメリカの抗議者たちがそこで要求したのは、Tax the Rich であり、デモで示した立場と認識は We are the 99% であった。明らかに、オキュパイ・ウォール・ストリートは格差と経済的不平等に反対する運動であり、資本主義に規制をかけようとする運動である。新自由主義による過剰な搾取に抵抗する労働者の運動であり、資本主義がもたらした矛盾と弊害を克服し、問題解決を図ろうと試みた庶民の運動だった。畢竟、社会主義の性格と動機を持った運動であり、次の地平を模索する挑戦だった。その動きは一過性のものに止まらず、5年後のサンダース旋風となって吹き荒れ、活力を漲らせたまま今日まで続いている。アメリカの若者の70%が社会主義を是認し、積極的に肯定・評価し、未来の選択肢として視野に入れている。アーレント(主義者)は、このアメリカの現実を見て何と言うだろうか。
9年前のオキュパイ・ウォール・ストリートは、現代アメリカで起きた革命未遂の事件だった。彼らは、群衆による占拠によってNY証券取引所を麻痺させ、株式市場を強制的に停止させ、グローバル資本主義の活動(ドルマネーの循環と蓄積)を封殺しようとした。実現していれば、巨大な混乱が起き、空前で怒濤の革命劇が展開する刻一刻となっただろう。オキュパイ・ウォール・ストリートのデモでは、Revolution の語が入ったサインボードが目につき、資本主義を批判するスローガンやメッセージが多かった。Class War(階級闘争)という言葉も多く使われ、アメリカでこれほどマルクスや社会主義の思想が日常に根づいているのかと驚かされた。それらが禁止語になって廃絶されている日本との彼我を印象深く感じたものである。アメリカの報道で Working Class という言葉が登場しても、日本のマスコミはそれを「労働者階級」とは説明しない。NHKはそれを「労働者たち」と日本語訳してニュースを欺瞞して処理する。オキュパイ・ウォール・ストリートの市民は、自分たちの民主主義の伝統に則り、This Is What Democracy Looks Like とコールした。
そこでは、民主主義と社会主義は矛盾なくハネムーンしている。どちらかに無理に引き寄せて解釈する余地はない。その必要もない。彼らが即いたのはルソーであり、直接民主主義のジェネラル・アセンブリーが大真面目に実践されていて(傍目からはプリミティブに見えたが)、民主主義と社会主義を新次元の先端的環境で化学合成させる実験と鋭意が見て取れた。彼らは近現代思想をマイグレーションする試行錯誤をやっていたと言え、ズコッティ公園は思想開発の前衛的な演習場だったと言える。(1)ヨーロッパ近代伝統の思想、(2)アメリカ民主主義の思想、(3)ネグリ的なオートノミーの思想、などなど。アメリカ民主主義の運動の延長上にオキュパイ・ウオール・ストリートが出現したことを否定する日本の論者はいない。左派の者たちは、マルクスが、最初に社会主義革命が起きるのは最も資本主義が発達した国だと予言した言葉を思い出した。トクヴィルが専門の保守主義の論者たちも、期待と希望を持ってズコッティ公園の様子を窺っていた感がある。日本からの積極的視線に例外はなく、エドマンド・バーク的な辛口批評の者はアカデミーにはいなかった。
松本礼二と河出良枝が強調するアーレントの言説では、革命とデモクラシーは峻別されるべきものであり、革命で社会経済的・階級的な果実は求めてはならぬと戒める。だが、現実のアメリカ市民の民主主義の革命行動は、Tax The Rich を正面から求め、グローバル資本主義の中枢現場の占拠を実行目標としたのである。革命とデモクラシーの峻別などなく、経済的な利害と課題からの革命行動がアメリカ民主主義の発動と表現そのものとなった。それはすでに9年前に全米で起きた事実である。彼らは純粋に公的領域でデモクラシーの活動をし、それは純粋に革命行動であった。資本主義の矛盾を克服・解決する人民の運動だった。9年前の時点で、アーレントの革命論の破綻は明白になったのであり、政治を考察し判断する概念装置として無効になっていたのだ。われわれは、そのことを率直に認めなければならない。加えて、今回のBLMの運動は、アーレントの政治学説全体を失墜の淵に追いやっている。アーレントの政治哲学を、レイシズム(=白人至上主義)の視座と回路によって為された知的産物として総括し、揚棄せざるを得ないところに現代人を到達させている。
アーレントが社会科学の主神の地位から没落し、アカデミーの神殿に鎮座していた偶像が撤去される日も近い。アーレントは、結局、冷戦期アメリカを正当化する反共保守主義のイデオローグでしかなかったのではないか。OWSとBLMの二つの出来事はそのことを示唆している。
by yoniumuhibi
| 2020-10-26 23:30
|
Comments(5)
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at 2020-10-26 19:35
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
長坂
at 2020-10-27 08:29
x
アーレントってイスラエルそのもの。イスラエルがバレスチナに対してあそこまで過酷・冷酷・残酷になれるのも、決して自分達の問題、自分達が問題としては捉えず、パレスチナ人の問題にすり替えているから。BLMなんてどこ吹く風、コロナを理由に更にアパルトヘイトを強化、もっと壁をもっと弾圧をになってしまっている。アーレント論法だとイスラエルの占領を許すパレスチナ人が悪いって事ですよね。
3
Commented
by
印藤和寛
at 2020-10-29 23:26
x
韓国ハンギョレ新聞の論説記事の水準が高いのは、10月28日付けの次の記事でもよくわかります。
”中国左派学生の問い「中国は果たして社会主義なのか」”は、中国の農民工、労働者の中にまじって働く女性を取材しています。広州中山大学で数学・コンピューター修士号を取得し最先端の情報通信(IT)企業に就職した女性が、広州の自動車部品会社の工場労働者となり(まるでシモーヌ・ヴェイユ)、深センの機械メーカー「佳士科技(Jasic)」で独立労組の設立を助け、それを支援した北京大学の学生たちと共に当局の弾圧を受けて獄中にいると見られる。彼らは「マルクス主義」を掲げて「現代中国のマルクス主義」習近平思想と対峙しているという内容でした。
彼らの理論根拠になっているという香港理工大学教授潘毅の「わたしはなぜマルクスを読むのか」(2017)を概略紹介します。
なぜ中国の労働者階級について考察する必要があるのか。自分の20代を思い返すと、当時香港中文大学で勉強していたとき、キャンパスでよく言われていたことがある。「20歳でマルクスを語るのは良い、30歳では過激、そして40歳では馬鹿」。私はほぼ40歳、すでに馬鹿の仲間というわけだ。それでもマルクスについて話すのはなぜか。なぜ40歳になって階級とマルクスに関心を向けたのか。20歳のときは何も見ていなかった。30歳のときはニーチェとフーコーを見ていた。実際、私は無駄に歩き、今2つの主要な歴史的問題にぶつかった。一つは、社会主義革命とは何かということ。私たちの社会主義革命によって確立しようとしているシステムに多くの問題があるということ。二つ目に、私たちが直面する歴史的発展の段階はどのようなものかということ。この発展の段階はマルクスが説明した資本主義よりも粗雑に見える。この二つの大きな問題に基づいて移住労働者(農民工)の問題、あるいは新しい労働者階級形成について考えたい。それは調和のとれた社会を構築する、言い換えれば階級を廃絶することに不可欠だ。
”中国左派学生の問い「中国は果たして社会主義なのか」”は、中国の農民工、労働者の中にまじって働く女性を取材しています。広州中山大学で数学・コンピューター修士号を取得し最先端の情報通信(IT)企業に就職した女性が、広州の自動車部品会社の工場労働者となり(まるでシモーヌ・ヴェイユ)、深センの機械メーカー「佳士科技(Jasic)」で独立労組の設立を助け、それを支援した北京大学の学生たちと共に当局の弾圧を受けて獄中にいると見られる。彼らは「マルクス主義」を掲げて「現代中国のマルクス主義」習近平思想と対峙しているという内容でした。
彼らの理論根拠になっているという香港理工大学教授潘毅の「わたしはなぜマルクスを読むのか」(2017)を概略紹介します。
なぜ中国の労働者階級について考察する必要があるのか。自分の20代を思い返すと、当時香港中文大学で勉強していたとき、キャンパスでよく言われていたことがある。「20歳でマルクスを語るのは良い、30歳では過激、そして40歳では馬鹿」。私はほぼ40歳、すでに馬鹿の仲間というわけだ。それでもマルクスについて話すのはなぜか。なぜ40歳になって階級とマルクスに関心を向けたのか。20歳のときは何も見ていなかった。30歳のときはニーチェとフーコーを見ていた。実際、私は無駄に歩き、今2つの主要な歴史的問題にぶつかった。一つは、社会主義革命とは何かということ。私たちの社会主義革命によって確立しようとしているシステムに多くの問題があるということ。二つ目に、私たちが直面する歴史的発展の段階はどのようなものかということ。この発展の段階はマルクスが説明した資本主義よりも粗雑に見える。この二つの大きな問題に基づいて移住労働者(農民工)の問題、あるいは新しい労働者階級形成について考えたい。それは調和のとれた社会を構築する、言い換えれば階級を廃絶することに不可欠だ。
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by
印藤和寛
at 2020-10-29 23:28
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潘毅の「わたしはなぜマルクスを読むのか」つづきです。
私たちの世代が勉強のために西洋に行った時期(私は1990年代半ばだった)、中国ではマルクスへの関心が薄れた。西洋では労働者がいない、消費者が労働者に取って代わったと信じられ、社会の内部問題に対処するのにマルクスの理論ではますます不十分だと感じた。したがって、人々はポストモダンおよびポスト構造理論を取り入れた。私の「Chinese Women Workers」はこの文脈で書かれており、Foucaultのような非常にファッショナブルな理論がそこにある。しかし、この本はいくつかの非常に重要な問題をうまく扱うことができていなかった。中国の社会構造や社会関係の問題を適切に処理できなかった。中国の巨視的な構造問題に対処できなかったため、非常にミクロなレベルに迷い込むことになった。この当初のアプローチがすべて間違っていたわけではないが、これでは非常に不十分であり、中国のマクロレベルが世界の工場になることからくる中国の根本的な問題を見過ごした
。階級の問題を軽視すること、これが私の本の最も深刻な欠点だった。
中国に帰国後、権力と資本に意識的に対抗できる「女性労働者を支援する」NGOに足を踏み入れ、マルクスに戻り始めた。この時、個人やその身体のミクロレベルの問題に力を入れると、広い環境や空間を無視することにつながって、そうした行動が力を持ちえないことに気づき、工業地帯に足を踏み入れて、マルクスの理論に真剣に戻り始め、『資本論』の内容の多くに改めて気づくことになった。今日の私たちの問題に対応する可能性はまだまだ未知数なのだが。
私たちの世代が勉強のために西洋に行った時期(私は1990年代半ばだった)、中国ではマルクスへの関心が薄れた。西洋では労働者がいない、消費者が労働者に取って代わったと信じられ、社会の内部問題に対処するのにマルクスの理論ではますます不十分だと感じた。したがって、人々はポストモダンおよびポスト構造理論を取り入れた。私の「Chinese Women Workers」はこの文脈で書かれており、Foucaultのような非常にファッショナブルな理論がそこにある。しかし、この本はいくつかの非常に重要な問題をうまく扱うことができていなかった。中国の社会構造や社会関係の問題を適切に処理できなかった。中国の巨視的な構造問題に対処できなかったため、非常にミクロなレベルに迷い込むことになった。この当初のアプローチがすべて間違っていたわけではないが、これでは非常に不十分であり、中国のマクロレベルが世界の工場になることからくる中国の根本的な問題を見過ごした
。階級の問題を軽視すること、これが私の本の最も深刻な欠点だった。
中国に帰国後、権力と資本に意識的に対抗できる「女性労働者を支援する」NGOに足を踏み入れ、マルクスに戻り始めた。この時、個人やその身体のミクロレベルの問題に力を入れると、広い環境や空間を無視することにつながって、そうした行動が力を持ちえないことに気づき、工業地帯に足を踏み入れて、マルクスの理論に真剣に戻り始め、『資本論』の内容の多くに改めて気づくことになった。今日の私たちの問題に対応する可能性はまだまだ未知数なのだが。
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by
印藤和寛
at 2020-10-30 07:47
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中国左派学生の問い「中国は果たして社会主義なのか」2020-10-28
http://japan.hani.co.kr/arti/international/38140.html
潘毅:我为什么要读马克思? 2017-02-27
http://www.wyzxwk.com/Article/sichao/2017/02/376987.html
参照アドレス忘れてました。見ると、yoniumuhibi さんとの米国だけではない世界的な問題意識の共通性が感じられます。
http://japan.hani.co.kr/arti/international/38140.html
潘毅:我为什么要读马克思? 2017-02-27
http://www.wyzxwk.com/Article/sichao/2017/02/376987.html
参照アドレス忘れてました。見ると、yoniumuhibi さんとの米国だけではない世界的な問題意識の共通性が感じられます。
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