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加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_15010302.png加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』。中高生向けに語られた日本近現代史の話題作の何が問題なのだろう。簡単に、率直に言えば、それが侵略戦争であるという歴史認識が欠落している点である。07年末から08年初に栄光学園の生徒に向けて行われたこの講義は、おそらく、小林よしのりの「戦争論」を始めとする右翼の歴史認識の跋扈に対して、アカデミーの側からスタンダードを対置する目的で、加藤陽子が作品を成すことを試みたものだろう。入学してくる東大生が右翼の歴史認識に影響を受けた者が多く、それが歴史の無知に基づくものであることを知った加藤陽子が、「鉄は熱いうちに鍛えよ」という動機で、スタンダードの提供に挑戦したということではないかと想像される。だが、これが教科書になることに私は賛成しない。10年前に『満州事変から日中戦争へ』を読んだときも、それを侵略戦争として捉える視角が弱く、過去の日本の侵略行為に対して反省的な態度で臨んでない点が気になった。



加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_14345619.png現在の日本は平和憲法を国是とする国である。それは、明治維新からの軍国主義の過去を否定し、深く反省し、それと決別することを宣言して出発した国だということだ。戦争と軍備を放棄し、国民全員がラディカルな平和主義者として生きることを誓った国だ。憲法9条が社会契約の根本の国である。であれば、当然、学校での歴史教育も、子どもたちを平和国家を建設する主体にするための教育と授業でなくてはならないだろう。われわれはそのような教育を受けた。戦後民主主義の教育はそういう中身だった。歴史教育も、社会科教育も、絶対悪である戦争を憎むことを教えなくてはならず、戦争の惨禍を正しく教え、戦争を憎悪する人格を育まなければならない。そうした平和主義教育の立場に立ったとき、加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の歴史認識はどう評価するべきだろうか。日中の近現代史、日韓の近現代史を中高生に教えようとするとき、72年の日中共同宣言や95年の村山談話の歴史認識は無視してよいものだろうか。加藤陽子の専門は外交史である。


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_14415776.png日本の近現代史を近隣諸国との関係史として整理しようとするとき、その視角の中軸となるのは、日本の対外侵略を反省する意識であり、侵略戦争の過誤に至った真実を解剖しようとする関心と鋭意でなければならないだろう。歴史学者が入門書を書くときは、その思惟的基礎を忘れてはならない。大学での学問研究でもそうであるべきだし、中高生への指導では絶対にその基本線から離れてはいけない。あくまで、平和憲法の原理原則に立った日本国民を養成する歴史教育であり、歴史研究でなければならないはずだ。異端である右翼の歴史認識は、言論・思想の自由の懐の下に回収させ、東大が発信するスタンダードは日本国憲法の精神に準拠させる必要がある。つまり、明治以降の歴史を探るときも、大陸侵略の過程を必然の流れとして平板に整理し概説するのではなく、戦争を避ける可能性もあったのだという知見と認識を提示する態度を持たなくてはならない。国民の選択と総意による必然的な進行だと教えるのではなく、戦争反対の意見や主張が押し潰された結果だと教えなければならない。


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_13324506.png具体論を述べよう。第1章で日清戦争を取り上げた加藤陽子は、日清戦争については国内に反対論がなかった事実を強調している。日露戦争のときはあれほど - 与謝野晶子や内村鑑三など - 反対論が起きたのに、日清戦争のときは驚くほどありませんでしたと言っている。その証拠として、後に足尾鉱毒事件で活躍する田中正造の発言(文書)を持ってきて例証するのである。歴史を俯瞰すれば、確かに反政府の自由民権派ほどむしろ排外主義の強硬派であり、侵略政策に傾斜し加担しているのは事実だが、しかし、それとは全く異なる方向性が国内に皆無だったわけではなかった。中江兆民の『三酔人経綸問答』に登場する洋学紳士の政策論がそうである。何度かブログで紹介したとおり、洋学紳士は後の憲法9条に繋がる非武装中立論を提唱している。道理をもって話し合えば、小国でも西洋列強と外交で渉たり合えると説き、いたずらに軍備拡張して戦争の道を歩むのではなく、国民経済を疲弊させるのではなく、民富を涵養することによって国力を増進させるのが経世済民の本義であると訴えている。


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_13395348.png兆民の『三酔人経綸問答』は、1887年(明治20年)の刊行である。現実的には、いわば歴史の藻屑に消え、政策過程に影響することはなかったけれど、日清戦争の7年前にこうした議論があり、明治国家の基本方針をめぐる初期の言論言説の中で、まさに選択肢の一つとして斬新で進歩的な思想が存在したことは画期的だと言えよう。岐路を示していた歴史の財産の意義があり、憲法9条を擁護する現代日本人に自信と根拠を与える事実だ。兆民自身が必ずしも洋学紳士の立ち位置と同じではなかったとしても、当時の知識界にこうした理想主義の対抗軸があり、帝国主義の路線に疾駆する戦争肯定のリアリズム一色でなかった点は救いと言える。近現代史学者はこの思想史的事実を看過するべきではなく、むしろ積極的にスポットを当てて高校生に教授するべきだ。加藤陽子が『三酔人経綸問答』の所論を知らないわけがない。だが、彼女は、自説である「日清戦争のときは国内に反対論がなかった」を補強し説得したいがため、中江兆民を隠し、田中正造を持ってくるという方法的な細工をしているのである。


前回の記事で、加藤陽子の説明にはイデオロギーの歴史認識に問題があると書いた。具体的に気になった個所を挙げよう。第4章に汪兆銘についての記述がある。こんなことを書いている。

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_13283045.pngしかし、いま一人(胡適に)優るとも劣らない迫力のある、これまたものすごく優秀な政治家を紹介しておきましょう。この人物の名前は汪兆銘といいます。この人は一般的には、日本の謀略に乗って(略)蒋介石を裏切り、(略)日本側の傀儡政権を南京につくった人物(略)として知られています。汪兆銘は、35年の時点で胡適と論争しています。『胡適の言うことはよくわかる。けれども、そのように(略)激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう』と反論します。この汪兆銘の怖れ、将来の予測も、見事あたっているでしょう? 中華人民共和国が成立する1949年という時点を思いだしてください。中国はソビエト化してしまったわけです。汪兆銘は、まるでそれを見透かしていたかのように、(略)中国は日本と決定的に争ってはダメなのだ、争っていては中国共産党の天下になってしまう。そのような見込みを持って日本と妥協する道を選択します。(新潮文庫 P.385-386)


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_13552181.pngこのように論じ、汪兆銘を「ものすごく優秀な政治家」だと持ち上げて絶賛している。この歴史認識は、果たして中国の人々や台湾の人々や、あるいは全世界の華人に受け入れられる学説だろうか。中国だけでなく、台湾の政府や市民も到底容認できないだろうと思われる。汪兆銘は中国を日本軍国主義に売った売国奴であり、
中国は侵略戦争によって2千万人の犠牲を出した。加藤陽子の認識では、共産党が中国を支配したことが最大の過誤であり、中国の失敗と厄災であり、それを阻止するために日本と手を結ぶことが正しかったという見解になる。その論理で汪兆銘への評価が導出されている。最悪なのが共産主義の統治と支配で、それを防ぐためなら何をやってもいいのだという判断が基底に見える。反共こそが最善で、最もプライオリティの高い政治的価値で、反ファシズム・反軍国主義は二の次だという価値観が窺える。戦争が絶対悪ではなく、共産主義が絶対悪だという思想だ。右翼に近いバイアスを感じる。このような歴史認識を、中高生に向けてスタンダードな教説として教育提供してよいのだろうか。


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - 侵略戦争の歴史認識の欠如_c0315619_14363550.pngこの加藤陽子のスタンスは、岩波新書『満州事変から日中戦争へ』の叙述でも同様で、日本側の狡猾な外交工作の一つ一つを侵略行為として否定的に捉える視線がなく、当時の国際法で正当化できる外交営為として肯定的に検証するものだった。また、その基軸となった「満蒙は日本の生命線」の標語についても、正確なイデオロギー批判を加えて対象化していない。まるで、恰も外務省の内部にお抱えの専門アカデミーがあって、そこの主任研究員が史料を調査研究して世間に報告しているような印象を覚えた。防衛省にはそうしたアカデミーがあり(防衛研究所)、秦郁彦のような(歴史修正のマエストロの)研究者がいる。加藤陽子がよく言うのは、日本の近現代史の戦争について、天皇や軍部の責任にして総括するのはよくないという言い方だ。この言い分にも抵抗を感じる。戦後民主主義の歴史認識の否定に聞こえ、戦後民主主義の精神を脱構築する邪な意図を嗅ぎ取る。本来、東大の歴史学なり政治史は、戦後日本の、新生日本国の正しい歴史認識を学問的に継承させることが任務であり、重責を持つ担当アカデミーだったはずだ。


その本文は奈辺にあるかというと、戦後日本の知的指導者である丸山真男の学問と思想になるだろう。丸山真男は1947年の『科学としての政治学』の中で、戦前の政治史の中には政治学が拾い上げて範疇化する意味のあるものは何も無かったと切り捨て、戦前と戦後の断絶を説き、戦前日本のリセットを言い、拒絶と止揚を学者たちに呼びかけた。しかるに、今の御厨貴だの北岡伸一だの三谷太一郎だの板野潤治だのは何なのだろうか。断絶も何もなく、緊張感なく、戦前日本と現代日本は一続きの延長上に肯定的に捉えられ、同じ政府と国民がずっと続いているかの如く概念処理している。戦前にはまともな政党政治があり、二大政党制がよく機能していたという言い草だ。昭和は遠くなりにけり。溜息をつくばかりだ。



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by yoniumuhibi | 2020-10-14 23:30 | Comments(4)
Commented by 長坂 at 2020-10-14 19:47
私は、日中戦争は笠原十九司、日本軍は吉田裕、天皇は山田朗、慰安婦は吉見義明、朝鮮侵略は中塚明を選ぶので、加藤さんの本(1冊読んだ記憶はある)を今後も読む事はないと思いますが、加藤さんが任命されないとなると、後任は百田しかいないのでは? 加藤さんのWIKIを見ると東大の師匠が伊藤隆でしょ。「つくる会」だもの。
以前内海愛子さんのBC級戦犯の勉強会に行った時、さぞかし右翼やネトウヨからの嫌がらせが酷いのだろうと思って伺ったら、「あの人達は全然問題ないけど、同業者が酷くて」と言われていたのが印象的でした。
ちょっと逸れますが、坂本義和〜藤原帰一〜三浦瑠麗という師弟関係ってある意味戦後日本を象徴する系譜だと。坂本義和の平和への強い意志が藤原帰一を経由すると三浦瑠麗になるという。坂本さんは年齢的に戦場体験はないが香港(だったと思う)での日本兵による現地住民に対する日常的な虐待を目撃している。残念ながら伝言ゲームなら真逆の答えになり、三代目が家を潰すの諺通りになってるのが今の日本でしょう。鍵を握る藤原帰一と私は同じ年。反中国感情や戦争被害者ナショナリズムしか生なかった私達の世代の責任は大きいと痛感しています。
Commented by H.A. at 2020-10-14 20:25
実証主義をうたう伊藤隆氏の弟子ですから、リベラルであろうとしても限界があるかと思います。「歴史を相対化することで・・」とのこと。
https://kangaeruhito.jp/article/974
Commented by さふらん at 2020-10-15 15:02
本を批判的に読まなくてはいけない、知識を積み重ねて、疑問を持ちながら、読まなくてはいけない。そういう初心を思い起こしました。
東大の先生というだけでは中身が保証されていないのはもちろんですが、近年それがひどくなっているのを感じます。
Commented by みきまりや at 2020-10-16 08:45
 「あなたはすばらしい人生の物語を持っている」「日本と世界のために非常に多くのことをするだろう」とトランプ大統領は菅政権発足に当たり期待を寄せた。
 「日本と世界のために非常に多くのことをするだろう」が気になりました。何をすることを期待されてるのかな?と。
 一番してはいけないことは中国との戦ですね。第二次世界大戦のとき、日本兵は中国へ行ってその庶民の命を奪っている。だからその反対の状況が日本で生じても文句はいえない…。
 黒人が、白昼警官によって殺されているアメリカは難しい状態ですね。憎しみが大手を振って歩いている。そんな国をまとめる方法の一つは、外で主義の違う国と戦うこと、その時は白人、黒人、その他の人種の人も同じアメリカ人になれるから。
 共和党トランプ大統領だけでなく、民主党バイデン氏も決心してしまう方法かもしれない、などと私は思ったりです。(どうか杞憂でありますように祈ります)
 数日前美容院で、いつもカットしてもらっている男性美容師の人が「中国は悪い」と言った。川柳が趣味なのでネットを見ていたら「中国は嫌い」と詠んだ句がありました。以前にはそんなの無かったのに…。
 日本と中国の庶民の日々の平和を守るよう、戦争を避ける知恵を働かせ、考えるのが人間として本当の賢さ、知性だと私は思います。


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