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井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史

 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14092052.jpg前回、24年前(95年)に岩波の主催で行われた日韓シンポジウムを紹介し、日韓基本条約がどのようなものとして韓国側に認識されていたのかを確認しました。そして、その場での報告と討論の内容が、いま読み返しても全く古くなっておらず、むしろ新しさを感じるという感想を述べました。「新しさ」を感じる部分の一つとして、日韓基本条約の第2条と第3条に記された already(もはや)の意味をめぐって日本側と韓国側で時間認識の対立があり、それが解消されていない点がこの本でも説明されていることで、条約の欠陥として挙げられています。最近のテレビとネットの言論でも、やはりこの問題が取り上げられる機会があり、24年経っても同じままだということを思い直します。ただ、最近の言論は、ほとんど右翼からのもので、韓国側を一方的に糾弾して日本政府の立場を正当化するものばかりです。24年前の日本側知識人のように、植民地支配を成立せしめた旧条約・旧協定の締結時に遡って「もはや無効」と解釈し、認識を一致させるべきで、その姿勢こそが歴史を清算しようとする正しい立場なのだという主張(P.37、安江)はどこからも聞こえてきません。



 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14093398.jpg新しさを感じたもう一つの点は、井出孫六が『歴史の清算とは何か』と題した報告の中で論じている吉田松陰批判の問題です。その部分を抜粋しましょう。「吉田松陰といっても、今日の韓国の方々にはまったくなじみのない名前だと思いますが、その出身地である長州藩(山口県)を中心として、明治維新を切り開いていった若い人々にカリスマ的影響を与えた江戸末期のイデオローグのひとりです。(略)三十二歳(ママ)で獄死したこの志士の政治思想は、たとえ多くの未分化な要素を含みもっていたとはいえ、全体としては貧しく未熟なものに終わったといえましょう。とりわけ晩年囚われの身となった彼の思考には絶望に隣り合ったニヒリズムの翳があります。死の獄につながれた彼に『幽囚録』という獄中記があるのですが、そのなかに突然、日本の未来像を思い描く次のような条(くだ)りがあります。― 宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、隙を乗じてカムサッカ、オロッコ(樺太)を奪い、琉球に諭し・・・・朝鮮を責めて質を入れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし ―」(P.112)。

 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14194846.jpg「吉田松陰の妄想にも似たこの構想には、若いころその謦咳に接して育った伊藤博文や山県有朋によって、さらにまた次代の桂太郎や寺内正毅、田中義一といった後輩たちの手で現実のものになっていったことを考えると、妄想などという言葉で片づけることのできぬ重大さを見てとらずにはいられないのです。最近、岸信介の評伝が岩波新書で上梓されたのを見れば、吉田松陰の影響が血脈になって受け継がれているのを知ることができます。(略)『幽囚録』は長州萩の野山獄からひそかに持ち出され、遠く信州松代に蟄居を余儀なくされていた師、佐久間象山のもとに届けられ、校閲の労をとった佐久間の批評は、生前の松陰の手許には間に合いませんでしたが、松陰の攘夷とは異なる開国論の地平を切り拓いて佐久間は、年若い弟子に対して、『君は詩文、故実はよく勉強しているが、オランダ語を身につけて宇内の情勢を知り、詳証術に心を用いるがよい』と諭しています。詳証術とは、いまでいえば論理学、数学をさす古い言葉で、理性といった語に置き換えることもできるでしょう。佐久間のこの示唆は、夜郎国の人々にとっては、今日もなお有効性を持っていはしないでしょうか」(P.112-113)。

 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14200342.jpgこの松陰の『幽囚録』の記述と構想は、最近ではネットの左翼方面では常識の範疇になっていて、ほとんど松蔭の代名詞の如き表象になり、明治国家と近代日本を否定的に捉えるときの悪しき原点として扱われています。特に、ネットの中では2000年代以降に繰り返し登場し、目に触れるところとなり、左翼によって精力的に拡散され、松陰を貶下し、明治維新を断罪する際の決定版的な証拠になったかの観があります。アカデミーの世界でいつからこうした松陰論が流行り始め、定着して行ったのかは定かではありませんが、丸山真男の論文『国民主義の前期的形成』の中で整理されている松陰論では、『幽囚録』のこの部分には注目が当たっていません。95年の井出孫六が最初の告発者なのでしょうか。であるとすれば、画期的で先駆的な「業績」です。などと思い、あらためて24年前に出された「世界」臨時増刊を感慨深く思いました。ただ、ここから私の意見ですが、日本政治思想史の観点から見て、井出孫六による松陰と象山の二項対立の論には少し不具合を覚えます。松陰を単純で無知な攘夷論者、象山を知的で老熟な開国論者として図式化するのは誤りであり、悪意のある印象操作でしょう。松陰は江戸木挽町の私塾で象山に学び、その経世思想(政治学)の弟子だからです。

 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14345725.jpgそもそも、松陰が浦賀からペリーの黒船に乗り込もうとしたのも、欧米の国力と情勢を実際に自分の目で見て学ぶためで、象山に影響されての行動です。攘夷の龍馬は勝の話を聞いた瞬間に開国になります。攘夷は国防と独立を動機とするナショナリズムで、それを実現するための富国強兵策が論理的に開国の立場と選択へスライドして行きます。松陰を弁護するわけではありませんが、当時の志士はほとんど松陰と同じ発想と展望だったと考えてよく、後の中江兆民の『三粋人経綸問答』に出てくる「洋学紳士」的な範疇を見出すことはできません。カントの『恒久平和のために』に影響された平和主義者はいません。富国強兵に異論を唱え、オルタナティブを描いた思想家はいたでしょうか。松陰の思想が明治維新の基軸となり、明治国家の路線となりました。その基本は、(1)天皇を中心とした中央集権国家、(2)富国強兵、(3)殖産興業、(4)四民平等、その目的は条約改正と列強入りです。昨年の大河ドラマで登場した越前の革命家、25歳で処刑された橋本左内も同じです。オランダ語と英語に通じ、西洋医学の素養もあった知識人でした。ロシアと同盟を結び、朝鮮と満州を植民地化し、西洋列強と対抗せよと訴えています。

 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14225201.jpg当時、アヘン戦争に負けた清は列強の侵略を受けて滅亡の危機にあり、日本も朝鮮も亡国の縁に立っていました。下級武士が危機感を持ち、ナショナリズムに燃えて富国強兵を志向するのは当然で、彼らの戦略構想を妄想とは呼べません。その時代の人間に憲法9条の平和主義の基準を適用し、愚かな侵略主義者だとレッテル貼りし、不当視して糾弾するのは社会科学的に公平な見方ではありません。それは時代を飛び越えた無理な認識であり、錯誤の視角と言えるでしょう。丸山真男の『国民主義の前期的形成』では、富国強兵論者の代表として本多利明と佐藤信淵の二人を挙げていますが、その佐藤信淵はこう言っています。「皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」。日本至上主義を言い挙げ、周辺諸国を征服して植民地化せよと言い、満州、朝鮮、台湾、フィリピン、南洋諸島の領有を提唱、対外膨張主義の先駆とされますが、後期水戸学から幕末尊皇攘夷の思想家群は、似たような気分と観念を継承し共有していました。井出孫六のような後代の「思想検事」によって捜査され、残した文書記述を追及されるかどうかの違いです。

 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14105699.jpgただ、今日の日韓関係の局面において、井出孫六の提起は重い思想的意味を持ち、鋭い説得力でわれわれに迫ってくることを否定しようもありません。24年前、私はこの文章を読んでいるはずなのですが、特に気に留めることはありませんでした。バブルのさなかの87年に死んだ岸信介など、とっくに終わった戦後の政治家で、自民党の中でも評判の悪い日陰者の異端であり、注意と関心を向ける対象ではなかったのです。経世会のマイルドでリベラルな統治が長く続き、さらにそれも終わって、ポスト冷戦の自社さ政権の環境に入っていました。長州閥と明治と朝鮮の政治思想史など、特に深く考えなければならない問題系ではなかったのです。24年前、村山談話のとき、まさか今のような時代になるとは思ってもいませんでした。右翼方向へ向かって反動に次ぐ反動が四半世紀も続き、岸信介が高笑いする政治に後戻りするとは思いもよりませんでした。今、井出孫六の議論を読み直して、何とも予言的で強烈だなと緊張せざるを得ません。長州閥カルトと近代日本と東アジア、そういう面妖な想像が浮かび上がり、教組の位置に立ってしまう松陰の悪性表象化を止めることができません。



 井出孫六の松陰批判 - 『幽囚録』と長州閥カルトの政治思想史_c0315619_14113719.jpg

by yoniumuhibi | 2019-02-06 23:45 | Comments(3)
Commented at 2019-02-06 18:13 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 七平 at 2019-02-07 01:12 x
余り読書をせず、自らの経験と洞察力に頼って自己哲学を形成する私にとっては、汚染されていないオリジナル資料を基に客観的に祖国の歴史を解説していただける本サイトは貴重な存在です。感謝しております。 通常、真実は両極端の間にある事を念頭において、両サイドからの資料や意見を吟味吸収していくつもりです。 私が幕末の頃まで遡って、日本歴史を疑い始めたのは、現政権の嘘の垂れ流しに寄るものです。公文書を書き換えたり、知的なウェブサイトに上がった貴重な記事やコメントを消してみたり、最近では、経済の統計データまで嵩上げ。捏造。嘘が氾濫し、こんな事を続けていると、嘘をついている連中自体、何が真実だか判らなくなります。嘘のデータを基に、まともな政策等建てられるわけがありません。大本営発表の嘘が敗戦につながり、現在の嘘が国の経済を衰退させ、嘘の歴史が国民のプライドを消滅させてしまいます。旧ソ連も末期には政府発表の嘘データが氾濫していた事は良く知られています。

吉田松陰の発想自体は当時のアジアの状況(欧米諸国に寄る植民地化)を考慮すると、許されるべきと思いますし、現在のモラルを適応して彼を悪者扱いにする気はありません。 松陰の思想と発案を受けて、それらを実行に移した、伊藤博文等に対しても同じ事が言えると思います。 結果としては、同胞、近隣諸国、諸国民に迷惑をかける事となりましたが、当時の背景説明を正確にすると理解してもらえると思います。同様に、日本人は伊藤博文を暗殺した人物を 彼らの見地からすれば当然の事をしたと理解すべきと考えます。 しかし、近隣諸国との歴史を考えると、現在でも伊藤博文をお札の看板にする事は賛成しかねます。

問題はミイラ取がミイラになって、自らが東洋人である事を忘れ、隣国人との平等をほったらかしに、欧米人との平等に躍起となったところにあると思います。 鹿鳴館文化が示すように、日本人が欧米諸国の一員に成ろうと必死になり、半分なったような錯覚にとらわれて、現在に至っているのが実情ではないでしょうか? 麻生太郎なんぞは典型的な見本で、鹿鳴館文化からのメッキ張りの化石にみえます。
Commented by 動画三田造 at 2019-02-11 17:14 x
  こちらへカキコさせてください。動画拝見しました。「北方領土」を考える時の、原点としてロシアが初めて幕府に接触して来た時代の日本人の物語を基礎とせられ、大変ロマンチックであります。ところで、先住民族アイヌの生きる立場が、視点が、どうなりましょう?徳川期以来植民地とされてきた蝦夷地。失礼して私見を勝海舟ふうに申せば、「四島がぁとか…、ち~せ~ち~せ~」。高知県には北方先住民と類似発音・類似発想の地名が残っており、いや地名にだけでなく日本語の根幹に温存されております。(大歩危、ホキ等、後述)

  日本の北方領土問題を考える時に、はるか縄文時代以来そこに居た先住民の問題は、無視されがちですので、申し上げます。日本の北の先住民は、千島北海道樺太の先住民アイヌ民族、樺太の先住民ウィルタ民族。けっして日本人とアカの他人ではない民族です。(司馬も金肥・江戸木綿文化、蝦夷錦で触れてはいますが、蝦夷地支配を植民地と明確には述べていないのは出版社がらみでしょうか。美しい日本人の物語。その裏の悲しい蝦夷の物語をも書いて欲しかった。) 日英米ソにより、千島アイヌ民族、一万年以上前からそこで暮らしてきた民族が、領土と生業とを奪われて絶滅させられた事実は重い。

  もう同化してしまったと自民党は主張したために却って国際的な正義の訴求力を失ってきた。民族問題として提起しなかった。却って、米ソの勝手な分割と亜細亜支配固定化という罪の罪払いをしてやって有利にしてやったようなものだ。国内的には単にソ連の恐ろしさを宣伝するための道具にしてきただけだった。孫崎氏の言う米国の打ち込んだ楔説のとおり、日ソ・日露関係を膠着させる自縄自縛政策を自民党は上手に実行したことになった。米英が対ソ撒き餌としてやった勝手な陰謀線引き犯罪の隠蔽を、自民党日本がソ連を非難しながらやってきたのだ。 
  少数民族は分断され圧殺され生き残った者は止むを得ず同化を強いられたものも少なくなかった。この犯罪は最初は日帝が、のち米ソ日が、国内的には、当初GHQ、のち日本自民党政府と日本人の一部バカが強いてきたのだった。またこれは亜細亜支配のための亜細亜分割の一部であった。


  ほぐすために振り返る必要があります、日本政府日本人商人軍人の民族圧殺の歴史を。


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