ノモンハン事件の歴史認識と三つの動機 - 辻政信化した現代日本人

c0315619_14590177.jpgノモンハン事件は、中国との戦争と米国との戦争の間に起きたソ連との戦争である。盧溝橋事件が37年7月、真珠湾攻撃が41年12月、ノモンハン事件は39年5月に起きている。それはまた、1931年の満州事変から始まる長い15年戦争のちょうど中間の時点に位置する戦争でもあった。ノモンハン事件はどのような戦争だったのか。どのような歴史認識として定着しているのか、それを確認しようとしたが、あまり明確なものがないような印象を受けた。手元にある山川出版社の高校日本史Bの教科書(1996年版)を見ても、本文中に記述がなく、独ソ不可侵条約の注記の扱いでページ下欄に触れられている程度で(P.327)、あまり重要な扱いがされておらず、十分な説明が加えられていない。一般には、NHKの特番や司馬遼太郎の言葉がノモンハン事件の表象になっていて、参謀辻政信の狂気の暴走と陸軍首脳部の病的な無責任という図式で歴史認識が総括された格好になっている。半藤一利がその語り部の代表だ。が、私にはどうもこの語り方が不十分であるように不満に感じられ、もっと立体的に概念的にこの歴史を捉える必要があると思われてならない。



c0315619_14595644.jpgノモンハン事件を高校の歴史で教えるときは、独ソ不可侵条約の付随物としてではなく、1936年の日独防共協定、翌37年の日独伊防共協定の延長線上の歴史として説明するべきだろう。日本の軍部が - この「軍部」という言葉には昭和天皇の意思も含まれるが - ノモンハン事件を起こした目的と動機は、次の三点に要約できると思われる。第一は、泥沼化していた日中戦争を打開するためであり、ソ連からの蒋介石政府と中国共産党の両方への支援を遮断するためである。これが最も重要で切実な課題だったと考えられる。第二は、昭和国家にとってのイデオロギー的な真正敵であるモスクワの共産政権を崩壊に追い込むことで、三国防共協定の構想に沿ってドイツと日本でソ連を挟撃・打倒することである。第三は、大日本帝国の版図の拡大で、バイカル湖以東を軍事占領して支配地域とし、外蒙古に第二の傀儡独立国を建てることである。日本軍は国民党政府に対する一撃に失敗し、中国問題で国際的な圧力を受けて窮地に立ち、軍事作戦で新たな展望を切り拓く必要に迫られていた。北からソ連が、南から英米が中国を支援していて、この支援ルートを断つ戦略が急務だった。

c0315619_15000876.jpg無論、ソ連との間で単独で最後まで大戦争を遂行する気はなく、局地戦で叩いて勝利を収め、それを見てヒトラーが東に進撃しモスクワを衝く事態になれば、それに応じてこちらもシベリアを西に進撃するという思惑である。ソ連側が収めた戦果(停戦協定)を日本側も狙っていて、そして、結果的に日本側の想定とは反対にソ連側が軍事的勝利を収めた。補給の差が出、機械化の差が出て日本軍が敗北した。日本軍がノモンハンで勝利していれば、ソ連は中国への支援介入の道を断たれ、中国戦線の情勢は大きく変わっていたことは確実だ。英米の南からの中国支援の動きも、また国際的な反ファシズムの勢いも大きな打撃と影響を受けたに違いない。ノモンハンでの日本軍の壊滅が決定的になったのが39年8月で、(日本側が何も知らなかった)独ソ不可侵条約が同時に締結され発表されている。ポーランド侵攻に軍が必要なスターリンは、すぐに停戦して蒙古から軍を引き揚げさせた。ノモンハンで日本軍が勝っていれば、独ソ不可侵条約は結ばれなかっただろう。ヒトラーは臨機応変にソ連との交渉を打ち切り、2年後に始めるバルバロッサ作戦を前倒ししていたと想像される。

c0315619_15002422.jpg第二の動機の論点は重要で、このところ、この問題についての歴史認識がすっかり後退しているように感じられてならない。右翼からのいわゆるコミンテルン陰謀史観の攻勢と跳梁跋扈である。今年のテレビ朝日の終戦記念番組は、春名幹男が監修したものだったが、その中身はグロテスクきわまるもので、ソ連のスパイが米国政府の中で暗躍したために日米戦争が始まってしまったという物語を言い挙げていた。日米戦争へと誘導したのはソ連の仕業であり、ソ連共産主義の工作がなければ日米戦争は避けられたという歴史認識の刷り込みである。悪いのはすべてソ連共産主義で、日本が悲惨な戦争に突入して310万人の犠牲者を出したのも、原因はすべてソ連共産主義の謀略だという奇妙な説明。そのことを強調することで、日本の侵略戦争の加害責任を隠蔽し、巧妙に責任転嫁している。第二次大戦は共産主義者の陰謀のために始まり、進められ、戦争の犠牲者は共産主義の犠牲だったという総括。それが、テレ朝だけでなくNHKにまで浸透していて、先日のさだまさしのファミリーヒストリーでも、新疆で陸軍特務機関員として工作活動していたさだまさしの祖父が英雄扱いされて描かれ、「赤色思想」の浸潤を阻止しようとした正当な任務だったと紹介されていた。

c0315619_15003887.jpgノモンハン事件を研究して名著『ノモンハン』(朝日文庫全4巻)を残した軍事史家のクックスが、90年に週刊朝日の誌上で司馬遼太郎と対談したものが残っていて、『東と西』という表題の対談集に掲載されている。NHKの番組で登場したところの、南カリフォルニア大学に所蔵されている音声記録というのは、おそらくクックス - 当時はサンディエゴ大学所属のはずだが - が参謀たちを取材して収集した証言資料だろう。そのクックスが対談の冒頭、司馬遼太郎に向かってこう切り出している。「その時代、日本の軍部にとって、ソ連のコミュニズムを抑止することが目的だったのか、それ以上の何かがあったのでしょうか」(朝日文芸文庫 P.10)。そのストレートな質問に対して司馬遼太郎は話を逸らせているけれど、クックスは研究者として正確に本質を射抜いているように見える。つまり、第二の動機の直視に他ならない。このところ、アカデミーが脱構築化し、左翼が脱構築化する中で、第二次世界大戦の定義も怪しいものに変容しつつあり、嘗てわれわれが教育されたところの、ファシズム対反ファシズムの戦争という認識が薄れ、反ファシズム側が勝利したという定説も曖昧なものになっている。

c0315619_15005081.jpg本来、ファシズム対反ファシズムの戦争という第二次大戦の定義づけは、スペイン人民戦線や仏レジスタンスや欧州各地パルチザンへの内在と連帯の意識と連なるもので、戦後世界の国連平和体制を秩序づける大義(価値観)とも重なっている。第二次世界大戦は、広範な反ファシズム勢力が結集してファシズム勢力である枢軸側を倒した戦争であった。正義は反ファシズム側にあり、その反ファシズム側の重要な位置にソ連と共産主義勢力が存在した。最近は、スペイン内戦という言葉は使うが、スペイン市民戦争という言葉はあまり使わなくなっている。それと共に、反ファシズムという意識や観念も次第に後退し、日本人が過去の歴史を反省的に顧みるときに頻繁に使う言葉ではなくなった。最近のマスコミでは、ファシズムという言葉も周到に避けられている気配を禁じ得ない。ソ連共産主義が諸悪の根源という発想が前面に押し出され、そのフォビアが現在の中国と被せられ、過去の歴史を語ることが自動的に現在の中国を敵視するように仕向けられている。共産党政権だから絶対悪だと説明抜きにレッテル貼りされ、悪魔視する認識が固まっている。昔はファシズムが悪魔のイデオロギーだったが、今は共産主義が悪魔になった。

その思想的立場に立てば、まさに辻政信や当時の軍国日本の首脳部と同じになる。共産主義を倒すためなら何をしても構わないという反共の思考になり、共産主義からの防衛という名目で侵略戦争が悪でなくなり、先の日本の侵略戦争が正当化される。浄化される。昔はよく巷で語っていた日本軍国主義という言葉も、最近は誰も使わなくなり、終戦の日にその語を述べたのは日本共産党だけだった。今では、その言葉は敵である中華人民共和国の言葉となり、反日勢力の言語ということで不当視され、国内でそれを言うのは異端の左翼だけという状況になっている。第二次世界大戦で負けたファシズム勢力を構成するのが、(1)イタリア・ファシズムと(2)ドイツ・ナチズムと(3)日本軍国主義の三者であり、ファシズムに反対し抵抗するのが正義だという正統で標準的な議論は、今ではすっかり霞んでしまった。


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by yoniumuhibi | 2018-08-22 23:30 | Comments(3)
Commented by 私は黙らない at 2018-08-23 04:29 x
ノモンハン事件が中国との戦争、米国との戦争の間におきたソ連との戦争であり、共産主義打倒を目的としたものだったとの指摘。
さだまさしの祖父、ウィグルでのスパイ活動の主な目的は対共産主義だった。ちなみにスパイというものは、スパイであることを墓場まで持っていくものかと思っていたが、今なぜNHKが大陸での対共産主義スパイ話を芸能人の祖先を使って公にするのだろうと、ちょっと訝しく思った。
個人的には、祖母エムの人生が圧巻だった。人生をリセットするため、ハバロフスクに女の身で単身わたり、スパイを匿えば身の危険があるなか、とびこんできたさだまさしの祖父を匿った肝っ玉。
だがまてよ、ブログ主さんがツイッターで指摘されてるとおり、エムの2番目の連れ合いは一体何をしていた?さだまさしの祖父にしても、ハバロフスクの日本人社会の中でエムと旧知であった可能性は高く、もっと言ってしまえば、人々が飲み食いする料亭は、情報収集には格好の場だし、エム自身、本人に自覚があったかどうかは別として協力者だったってことはないだろうか。
この番組と前後して、ETV特集で治安維持法を特集していた。どれだけ共産主義を脅威していたか。支配層にとって、それは即自らの身の危険と意識され、結局パラノイア化した自己保身術にすぎなかったのだろう。
飲み食いの場にまで、スパイが入り込んでいたら、うかうか酔っぱらうこともできない。まして、今、ネットが言論の場になりつつある中、個人の思想傾向など、簡単にデータ化でき、逃げようもない。本当に恐ろしい。


Commented by 長坂 at 2018-08-23 12:22 x
最近の戦時性暴力の視点から、ソ連兵の強姦被害がテレビや新聞で取り上げられるようになってきた。満蒙開拓団の接待所に「供出」させられた女性や妊娠させられ麻酔もなく粗末な器具で中絶せざるを得なかった女性達の告白。ネットを見たら鬼畜ソ連兵の蛮行オンパレード。関東軍の偉い人達がさっさとトンズラした後の満蒙開拓団がどんなに悲惨だったかは周知の事実ではある。でも下っ端日本兵の「慰安所なんか高くて行けない、だから強姦、強姦はただだから」や「生肉調達」その後殺して銀の指輪が「戦利品」にきちっと向き合って報道するメディアは皆無にひとしい。上官の命令に逆らえず現地中国人を殺したとか言うが、日本兵の暇つぶしレジャー娯楽としても沢山殺してる。戦争と言えば太平洋戦争だし、あたかも日本軍が免責されるかの如く、暴行強姦と言えばソ連兵と戦後の米兵の話になってしまった。後は繰り返し繰り返しナチスドイツの戦争犯罪ばかり。このままじゃ実は日本は連合国側だったとかになるのももうすぐ。
Commented by 七平 at 2018-08-23 23:28 x
最近掲題の記事を通し、80年前の歴史を分析して、学ぶところはありますが、嘘や真実の改竄に対する容認度が極めて高い日本文化の環境下、日本人や日本政府が残した歴史教科書や資料をどこまで信用して良いのか不安に思う今日この頃です。 実際、戦争を経験した人々の実話、もしくは 内外の資料と対照比較して書き上げた、John Dowerの著作、等を除いて、脚色おびただしい歴史書籍が氾濫しており、過去から学ぶ作業を難しくしていると思います。 

最近の親は、子育てにおいて 〝嘘をついてはいけません” と教えないのでしょうか? 東大法卒の連中が国会で嘘の垂れ流しをする様子をみて、戦後の日本教育も地に落ちたと実感しています。嘘をついても不起訴となり、栄転できる。そんな国になりつつあると思います。  小保方の出鱈目論文も腐敗を続ける日本文化の氷山の一角として考えるようになっています。 

米国のトランプも安倍晋三に負けないくらい嘘をつき、米国は米国の悩みを抱えているのですが、65%の常識ある米国人は日光の三猿のような真似をしません。 嘘は嘘、悪は悪、とのはっきりした概念をもっていますし、各個は意見を形成し述べる心構えができていると思います。 日本のマスコミは報道していませんが、トランプ城の崩壊は明らかに始まっており、時間の問題でトランプと取り巻きは政権から追放されます。法に準じた追放が終われば、トランプ一族に対する起訴に発展すると考えています。Watergate事件もそうでしたが、国のマスコミと司法府の独立性が如何に重要であるかを目撃する良い機会です。本サイトも実況で、米国でのトランプ排出、自浄作業を読者に紹介される事を期待します。 日本でもできるべき事なのですが、、、、、。



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