高畑勲が残した遺訓を考える - サンプルとしての富川悠太と雨宮処凜
4月5日に死去した高畑勲が、昨年、このようなことを言っている。「『火垂るの墓』のようなものが戦争を食い止めることはできないだろう。それは、ずっと思っています。戦争というのはどんな形で始まるのか。情に訴えて涙を流させれば、何かの役にたつか。感情というのはすぐに、あっという間に変わってしまう危険性のあるもの。心とか情というのは、人間にとってものすごく大事なものではあるけれども、しかし、平気で変わってしまう。何が支えてくれるかというと、やはり『理性』だと思うんです。戦争がどうやって起こっていくのかについて学ぶことが、結局、それを止めるための大きな力になる」。1年前にこの情報に接したときから、私はこの言葉に深く頷くところがあったが、そのことをあらためて確信させられたのは、高畑勲の死のニュースを報ステで伝えた富川悠太のコメントを聞いたときだった。富川悠太は、子どもの頃に『火垂るの墓』を見て戦争の恐ろしさを知ったと言っていた。この言葉はウソではなく正直な発言だろう。41歳の富川悠太が『火垂るの墓』を劇場で見たのは、30年前の1988年だから11歳のときということになる。
11歳の富川悠太少年の胸にこの作品は重く残り、その後の精神形成に何らかの影響を与えたことは間違いないと思われる。だが、この事実こそ、まさに高畑勲が語っているところの「『火垂るの墓』のようなものが戦争を食い止めることはできないだろう」という真実の証左であるように思われる。富川悠太はどのような政治思想の持ち主だろうか。私は、この男は毎回の選挙で自民党に投票しているだろうと踏んでいる。ここ数週間、朝日新聞が安倍政権への批判を強め、効果的なジャーナリズムを連発 - 森友文書偽造、イラク日報隠蔽 - して、政治を活性化させている状況の中で、右隣の席の後藤謙次が次第にその空気に影響され、政権と距離を置いた辛口コメントが目立つようになっているのに気づく。まるでそれを牽制して引き戻そうとするかのように、本来ならコメントの主役でない富川悠太が、後藤謙次の政府批判のインパクトを弱めるような纏めを言い、中和剤を撒くように番組としての論評を曖昧で無味乾燥なものにしている。例えば、財務省の文書改竄問題で、後藤謙次が「徹底的な真相解明が必要で幕引きは許されない」と語気を強めると、すかさず富川悠太が「再発防止が最も大事だということですね」と応じて返す。
森友問題を「公文書管理のあり方」や「再発防止」に導いて済まし、公文書管理法を弄る制度の問題にして始末しようとしているのは自民党で、これこそ幕引きの形に他ならない。富川悠太のコメントは、まさに官邸を代弁した御用論者の発言そのものだ。一般の視聴者は、富川悠太に対してそのような毒のイメージは持っておらず、特に政治に知識や関心のない普通の若者の代表くらいにキャラクター想定しているだろう。だが、私はそうは看做しておらず、官邸からの指令をダイレクトに受けて操られている工作員だと推測している。ここ最近、後藤謙次の様子が(官邸から見て)怪しくなっているので、富川悠太を直接に引き締める動きに出ていると思う。報ステやNW9の報道論調は内閣支持率に影響する。菅義偉と今井尚哉が報ステの「偏向」を放置するはずがない。いずれにせよ、41歳の富川悠太は、自分自身ではニュートラルな政治意識を持った不偏不党の者だと自覚しているに相違ないが、富川悠太が考える公平で正常な政治思想のスタンスというのは、国民世論の50%が安倍晋三を支持し、選挙となれば連戦連勝で安倍自民党が勝つ現状を肯定的に認めるという意味で、その状況を懸念したり否定したりするものではない。
われわれとは大いに違うし、また、マスコミは権力を監視するもので、権力からの干渉に抵抗するのが報道人だという(久米宏的な)使命感や職業意識もない。富川悠太に内在したとき、自分自身を政治的に特異だとか、報道者として失格だとか不適任だとかいう意識は寸毫もないだろう。JNNの世論調査でも、若者の自民党支持率は突出して高い。NNNの選挙出口調査の統計でも、その傾向は明確に出ている。41歳の富川悠太が、安倍晋三の政策やイデオロギーに親近感を覚え、それに近い立場を「中立」で「妥当」だと思い込むことは不自然ではないし、われわれのように、口煩く安倍晋三を糾弾して9条護憲を訴えている者が、富川悠太の見地からは左傾化したロートルの異端に見えるのだろうし、ダーウィン的な適者生存の時代の変化に順応できなかったガラパゴスの消滅種に映るのだろう。富川悠太の頭の中では、『火垂るの墓』の戦争の悲劇が、安倍晋三的な右翼のイデオロギーによって惹き起こされたという認識がないのだ。だから、『火垂るの墓』の作品への感動と自民党への支持が共存できるのである。これは『火垂るの墓』だけに限ったことではなく、ジブリの作品全体について言えることで、問題の本質はそこにあり、深刻に悩むべき難問の所在だと言えるだろう。若者ほどジブリの思想にコミットしている。
ジブリの教育的影響度は、この国で群を抜いている。子どものマストの知識で、人生観と社会観、真善美の価値観のカーネル形成において絶対的な教科書だ。だから、高畑勲の言葉は、ある意味で自己批判として受け取れるし、そう考えるべきなのだと私は思う。われわれが子どもの時代には、ジブリ作品はなく、夏休みに東宝が公開していた戦争映画は、どちらかと言うと反戦が明確なものではなく、むしろ海軍への郷愁が漂う大衆娯楽スペクタルだった。山本五十六は善人で英雄に描かれていた。ジブリがしっかり教育しているはずなのに、若者世代はそれとは矛盾する思想と人格に育っている。なぜか。ジブリよりももっと教育的影響度の大きな素材があり、小林よしのりのマンガがあり、そちらの方は単に感情の刺激だけでなくロゴスの啓発パワーがあったから、見事に若者を洗脳し、右翼脳に鍛え上げ、右翼の知識を身につけさせ、現在の安倍支持の強力な岩盤を作ることになった。高畑勲は、感情ではなく理性が重要だと言い、戦争をさせない人格を形成するためにはロゴスの教育が必要だと言っている。高畑勲は「理性」という表現をしているが、要するに論理と知識のことだろう。たしかに、私の観点からは、世代間でのその差が根本的な問題のように見える。
雨宮処凜は43歳。昨年の週刊金曜日の4/28号で「憲法9条の問題って面倒くさすぎる」(P.25)と発言していた。その態度には9条に対するコミットはなく、「9条の会」のファウンダーたちが示したような9条護憲の強い意思や信念は全く感じられない。雨宮処凜も、子どもの頃に『火垂るの墓』に感涙した一人だろう。だが、『火垂るの墓』には感激しながら、憲法9条に対しては「面倒くさい」という言葉が出る。左翼業界で左翼読者を相手に商売しながら、憲法9条は面倒くさいと言う。実際に面倒くさいのに違いない。雨宮処凜や津田大介からすれば、憲法9条というのは古い戦後左翼のイデオロギーの魔宮にある聖櫃であり、自分とは縁遠く悪印象なもので、接近するのが億劫で、思考したり研究しようとする意欲が起きない知的対象なのだ。正しい知識がない。そして、最初から憲法9条に対して「戦後左翼」というネガティブなレッテルを貼っていて、憲法9条の知識を身につけようという動機も生じない。だから、平気で「面倒くさい」と切り捨てることができる。もし、そこに小田実や土井たか子がいて、その不穏な一言を耳にしたら、どういう反応を示したことか。怒髪天を衝く雷が落ちただろうし、野坂昭如だったら容赦なく鉄拳の一撃が飛んだかもしれない。
もう一人、週刊金曜日の編集委員に中島岳志がいる。この男も43歳。どこかで、小林よしのりのマンガ本に大きな思想的影響を受けたことを告白していた。2/8号のエコノミストには、西部邁について「師とあおぐ」と言い、その著書を「私にとって決定的な大きな意味を持つ」と絶賛している。中島岳志も9条改憲派で、「安倍改憲」と同じ中身の「新9条」を唱えて回っている自称リベラルの論客の一人だ。単純な事実だけれど、高畑勲が言っている「理性」の問題とはこういうイデオロギーの問題なのだろう。9条の平和主義の理念を否定する右翼のイデオロギーが90年代後半の日本社会で大流行になり、つくる会だの何だのが大盛況した知的状況があった。左翼否定の言説が流行った。それらが出版世界のメインストリームとなり、マスコミの言論を浸食し、流行思想に敏感な少年たちを感化して行ったのであり、思想世界のシェアを右翼のイデオロギーに奪われた分、これまで正統で常識であった戦後民主主義のロゴスが後退したのだ。戦後民主主義の教育の言葉が消え、消されて行き、罵倒を浴びせられるようになり、「古い戦後左翼」という悪性表象のレッテルを貼られて現在に至っている。高畑勲が言う「戦争がどうやって起こっていくのか」は、戦後民主主義のロゴスが正しく教えていた。
戦後民主主義をゴミ箱に棄てたから、そのロゴスが消え、代替するロゴス(右翼のイデオロギー)が入り、結果として、中国・北朝鮮の脅威に対して自衛隊の軍事力を増強すれば、日本の平和を守れ、『火垂るの墓』の悲劇は避けられるという認識に落ち着いたのである。若者の中で、ジブリ映画への絶賛感動と9条改憲肯定の意識は矛盾せず両立するのだ。
11歳の富川悠太少年の胸にこの作品は重く残り、その後の精神形成に何らかの影響を与えたことは間違いないと思われる。だが、この事実こそ、まさに高畑勲が語っているところの「『火垂るの墓』のようなものが戦争を食い止めることはできないだろう」という真実の証左であるように思われる。富川悠太はどのような政治思想の持ち主だろうか。私は、この男は毎回の選挙で自民党に投票しているだろうと踏んでいる。ここ数週間、朝日新聞が安倍政権への批判を強め、効果的なジャーナリズムを連発 - 森友文書偽造、イラク日報隠蔽 - して、政治を活性化させている状況の中で、右隣の席の後藤謙次が次第にその空気に影響され、政権と距離を置いた辛口コメントが目立つようになっているのに気づく。まるでそれを牽制して引き戻そうとするかのように、本来ならコメントの主役でない富川悠太が、後藤謙次の政府批判のインパクトを弱めるような纏めを言い、中和剤を撒くように番組としての論評を曖昧で無味乾燥なものにしている。例えば、財務省の文書改竄問題で、後藤謙次が「徹底的な真相解明が必要で幕引きは許されない」と語気を強めると、すかさず富川悠太が「再発防止が最も大事だということですね」と応じて返す。
森友問題を「公文書管理のあり方」や「再発防止」に導いて済まし、公文書管理法を弄る制度の問題にして始末しようとしているのは自民党で、これこそ幕引きの形に他ならない。富川悠太のコメントは、まさに官邸を代弁した御用論者の発言そのものだ。一般の視聴者は、富川悠太に対してそのような毒のイメージは持っておらず、特に政治に知識や関心のない普通の若者の代表くらいにキャラクター想定しているだろう。だが、私はそうは看做しておらず、官邸からの指令をダイレクトに受けて操られている工作員だと推測している。ここ最近、後藤謙次の様子が(官邸から見て)怪しくなっているので、富川悠太を直接に引き締める動きに出ていると思う。報ステやNW9の報道論調は内閣支持率に影響する。菅義偉と今井尚哉が報ステの「偏向」を放置するはずがない。いずれにせよ、41歳の富川悠太は、自分自身ではニュートラルな政治意識を持った不偏不党の者だと自覚しているに相違ないが、富川悠太が考える公平で正常な政治思想のスタンスというのは、国民世論の50%が安倍晋三を支持し、選挙となれば連戦連勝で安倍自民党が勝つ現状を肯定的に認めるという意味で、その状況を懸念したり否定したりするものではない。
われわれとは大いに違うし、また、マスコミは権力を監視するもので、権力からの干渉に抵抗するのが報道人だという(久米宏的な)使命感や職業意識もない。富川悠太に内在したとき、自分自身を政治的に特異だとか、報道者として失格だとか不適任だとかいう意識は寸毫もないだろう。JNNの世論調査でも、若者の自民党支持率は突出して高い。NNNの選挙出口調査の統計でも、その傾向は明確に出ている。41歳の富川悠太が、安倍晋三の政策やイデオロギーに親近感を覚え、それに近い立場を「中立」で「妥当」だと思い込むことは不自然ではないし、われわれのように、口煩く安倍晋三を糾弾して9条護憲を訴えている者が、富川悠太の見地からは左傾化したロートルの異端に見えるのだろうし、ダーウィン的な適者生存の時代の変化に順応できなかったガラパゴスの消滅種に映るのだろう。富川悠太の頭の中では、『火垂るの墓』の戦争の悲劇が、安倍晋三的な右翼のイデオロギーによって惹き起こされたという認識がないのだ。だから、『火垂るの墓』の作品への感動と自民党への支持が共存できるのである。これは『火垂るの墓』だけに限ったことではなく、ジブリの作品全体について言えることで、問題の本質はそこにあり、深刻に悩むべき難問の所在だと言えるだろう。若者ほどジブリの思想にコミットしている。
ジブリの教育的影響度は、この国で群を抜いている。子どものマストの知識で、人生観と社会観、真善美の価値観のカーネル形成において絶対的な教科書だ。だから、高畑勲の言葉は、ある意味で自己批判として受け取れるし、そう考えるべきなのだと私は思う。われわれが子どもの時代には、ジブリ作品はなく、夏休みに東宝が公開していた戦争映画は、どちらかと言うと反戦が明確なものではなく、むしろ海軍への郷愁が漂う大衆娯楽スペクタルだった。山本五十六は善人で英雄に描かれていた。ジブリがしっかり教育しているはずなのに、若者世代はそれとは矛盾する思想と人格に育っている。なぜか。ジブリよりももっと教育的影響度の大きな素材があり、小林よしのりのマンガがあり、そちらの方は単に感情の刺激だけでなくロゴスの啓発パワーがあったから、見事に若者を洗脳し、右翼脳に鍛え上げ、右翼の知識を身につけさせ、現在の安倍支持の強力な岩盤を作ることになった。高畑勲は、感情ではなく理性が重要だと言い、戦争をさせない人格を形成するためにはロゴスの教育が必要だと言っている。高畑勲は「理性」という表現をしているが、要するに論理と知識のことだろう。たしかに、私の観点からは、世代間でのその差が根本的な問題のように見える。
雨宮処凜は43歳。昨年の週刊金曜日の4/28号で「憲法9条の問題って面倒くさすぎる」(P.25)と発言していた。その態度には9条に対するコミットはなく、「9条の会」のファウンダーたちが示したような9条護憲の強い意思や信念は全く感じられない。雨宮処凜も、子どもの頃に『火垂るの墓』に感涙した一人だろう。だが、『火垂るの墓』には感激しながら、憲法9条に対しては「面倒くさい」という言葉が出る。左翼業界で左翼読者を相手に商売しながら、憲法9条は面倒くさいと言う。実際に面倒くさいのに違いない。雨宮処凜や津田大介からすれば、憲法9条というのは古い戦後左翼のイデオロギーの魔宮にある聖櫃であり、自分とは縁遠く悪印象なもので、接近するのが億劫で、思考したり研究しようとする意欲が起きない知的対象なのだ。正しい知識がない。そして、最初から憲法9条に対して「戦後左翼」というネガティブなレッテルを貼っていて、憲法9条の知識を身につけようという動機も生じない。だから、平気で「面倒くさい」と切り捨てることができる。もし、そこに小田実や土井たか子がいて、その不穏な一言を耳にしたら、どういう反応を示したことか。怒髪天を衝く雷が落ちただろうし、野坂昭如だったら容赦なく鉄拳の一撃が飛んだかもしれない。
もう一人、週刊金曜日の編集委員に中島岳志がいる。この男も43歳。どこかで、小林よしのりのマンガ本に大きな思想的影響を受けたことを告白していた。2/8号のエコノミストには、西部邁について「師とあおぐ」と言い、その著書を「私にとって決定的な大きな意味を持つ」と絶賛している。中島岳志も9条改憲派で、「安倍改憲」と同じ中身の「新9条」を唱えて回っている自称リベラルの論客の一人だ。単純な事実だけれど、高畑勲が言っている「理性」の問題とはこういうイデオロギーの問題なのだろう。9条の平和主義の理念を否定する右翼のイデオロギーが90年代後半の日本社会で大流行になり、つくる会だの何だのが大盛況した知的状況があった。左翼否定の言説が流行った。それらが出版世界のメインストリームとなり、マスコミの言論を浸食し、流行思想に敏感な少年たちを感化して行ったのであり、思想世界のシェアを右翼のイデオロギーに奪われた分、これまで正統で常識であった戦後民主主義のロゴスが後退したのだ。戦後民主主義の教育の言葉が消え、消されて行き、罵倒を浴びせられるようになり、「古い戦後左翼」という悪性表象のレッテルを貼られて現在に至っている。高畑勲が言う「戦争がどうやって起こっていくのか」は、戦後民主主義のロゴスが正しく教えていた。
戦後民主主義をゴミ箱に棄てたから、そのロゴスが消え、代替するロゴス(右翼のイデオロギー)が入り、結果として、中国・北朝鮮の脅威に対して自衛隊の軍事力を増強すれば、日本の平和を守れ、『火垂るの墓』の悲劇は避けられるという認識に落ち着いたのである。若者の中で、ジブリ映画への絶賛感動と9条改憲肯定の意識は矛盾せず両立するのだ。
by yoniumuhibi
| 2018-04-09 23:30
|
Comments(4)
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護憲派
at 2018-04-10 00:39
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「火垂るの墓」が1988年、その5年前の1983年には「はだしのゲン」がありました。当時、小学生でしたが、教室で教師が「推薦映画」だとチラシを配り、地元の音楽ホールで上映会が催され、テレビのワイドショーでも「すばらしい映画」と時間をかけ丁寧に取り上げていたのを覚えています。
「火垂るの墓」も「はだしのゲン」もいずれも子供を主人公に戦時下の壮絶な悲劇を描いた作品ですが、「はだしのゲン」の原作は、「情」に訴えるだけでなく、戦争に突き進む社会とはどういうものかが、「事実」として「論理」として提示されていました。
主人公の父は、「日本の戦争は間違っている」、「日本はアジアの人々にひどいことをしてきた」、「朝鮮人を馬鹿にしてはいけない」と子供たちに教え、非国民だ危険思想だと地域から白い目で見られ、警察で拷問を受けます。戦争を賛美する教師、地域のボス、婦人会の姿も描かれます。主人公の隣人の朴さんは、朝鮮人だと日本人の子供からも馬鹿にされ、朴さんの父は原爆で非業の死をとげますが、その遺体の扱いまで日本人から差別を受けます。このほか、昭和天皇への批判、米国の原爆症調査(治療ではなく、核兵器のモルモット)への怒りも描かれます。
左派系雑誌に連載され、こうした内容を盛り込む原作のアニメ作品が、学校現場で「推薦映画」としてすすめられ、マスコミでも称賛されたわけですが、今の右傾化が進んだ日本では考えられないことでしょう。
ただ、それでも限界はありました。アニメでは、原作が描いた戦争に至る社会の「事実」「論理」がほぼカットされています。もっと言えば、原作の中の「事実」「論理」にも限界があると言えます。帝国主義戦争の根本原因・主犯・元凶である、巨大資本・財閥の責任への追及が弱いのです。原作コミックの作者、アニメの作者に敬意を表しつつ、しかし限界は限界として指摘しなければならないでしょう。
ところで、最近、異例のロングランと「この世界の片隅に」という作品が持ち切りでした。私はまだ観ていませんが、この作品にも同じことが言えるのでしょうか。つまり、「この世界の片隅に」に感動しつつ自民党に票を入れる、安倍政権を支持するという現象が起きているのでしょうか。極右政権、戦争法、そして平和憲法の危機、いまこそ、戦争を起こす「論理」「事実」を見据えた作品、「情」と「論理」の双方から訴求する作品が待望されます。
「火垂るの墓」も「はだしのゲン」もいずれも子供を主人公に戦時下の壮絶な悲劇を描いた作品ですが、「はだしのゲン」の原作は、「情」に訴えるだけでなく、戦争に突き進む社会とはどういうものかが、「事実」として「論理」として提示されていました。
主人公の父は、「日本の戦争は間違っている」、「日本はアジアの人々にひどいことをしてきた」、「朝鮮人を馬鹿にしてはいけない」と子供たちに教え、非国民だ危険思想だと地域から白い目で見られ、警察で拷問を受けます。戦争を賛美する教師、地域のボス、婦人会の姿も描かれます。主人公の隣人の朴さんは、朝鮮人だと日本人の子供からも馬鹿にされ、朴さんの父は原爆で非業の死をとげますが、その遺体の扱いまで日本人から差別を受けます。このほか、昭和天皇への批判、米国の原爆症調査(治療ではなく、核兵器のモルモット)への怒りも描かれます。
左派系雑誌に連載され、こうした内容を盛り込む原作のアニメ作品が、学校現場で「推薦映画」としてすすめられ、マスコミでも称賛されたわけですが、今の右傾化が進んだ日本では考えられないことでしょう。
ただ、それでも限界はありました。アニメでは、原作が描いた戦争に至る社会の「事実」「論理」がほぼカットされています。もっと言えば、原作の中の「事実」「論理」にも限界があると言えます。帝国主義戦争の根本原因・主犯・元凶である、巨大資本・財閥の責任への追及が弱いのです。原作コミックの作者、アニメの作者に敬意を表しつつ、しかし限界は限界として指摘しなければならないでしょう。
ところで、最近、異例のロングランと「この世界の片隅に」という作品が持ち切りでした。私はまだ観ていませんが、この作品にも同じことが言えるのでしょうか。つまり、「この世界の片隅に」に感動しつつ自民党に票を入れる、安倍政権を支持するという現象が起きているのでしょうか。極右政権、戦争法、そして平和憲法の危機、いまこそ、戦争を起こす「論理」「事実」を見据えた作品、「情」と「論理」の双方から訴求する作品が待望されます。
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memoryofart at 2018-04-10 17:55
映画『火垂るの墓』で描かれているのは、
《本来守られるべき弱者》が戦争が起こると、逆に真っ先に見捨てられるという、
《社会矛盾》の拡大の恐ろしさだと思います。
ただ、例えば日露戦争当時の風刺画の
《日露兵隊が流しあった「平民の血」で、日露の権力者らしき人物同士が乾杯する》描写
にあるような、戦争の元となる構造を理性的に引いて捉える観点は、あまり見られない印象です。
映画などの芸術作品においても、《感情・感性》の涵養だけでない《理性》の導入は可能だと思いますが、
その場合、《風刺》的に引いた観点や、《倫理》的なテーマの多少象徴主義的な展開が求められるでしょう。
しかし、日本は「お笑い」の人々でさえ《風刺》を意識的に拒絶していることが茂木健一郎発言への反発で明らかになる程に風刺が乏しい稀有な国であり、
《倫理》的テーマの展開も、下手に普遍化して何らかのタブーに触れることを恐れてるのかどうかわかりませんが、ハリウッド映画などと比べて弱い感じがします。
理性的な立場を保持するには、自分が直面する状況から一旦距離を置いて捉え直す、いわゆるコペルニクス的展開が大事な筈ですが、
日本のマスコミや教育自体が、与えられた見解を(一時的であっても、レトリカルなレベルでさえも)否定したがらない態度を続けてきたせいもあって、
理性的客観的な判断が効く日本人が減ってきているのかもしれません。
《本来守られるべき弱者》が戦争が起こると、逆に真っ先に見捨てられるという、
《社会矛盾》の拡大の恐ろしさだと思います。
ただ、例えば日露戦争当時の風刺画の
《日露兵隊が流しあった「平民の血」で、日露の権力者らしき人物同士が乾杯する》描写
にあるような、戦争の元となる構造を理性的に引いて捉える観点は、あまり見られない印象です。
映画などの芸術作品においても、《感情・感性》の涵養だけでない《理性》の導入は可能だと思いますが、
その場合、《風刺》的に引いた観点や、《倫理》的なテーマの多少象徴主義的な展開が求められるでしょう。
しかし、日本は「お笑い」の人々でさえ《風刺》を意識的に拒絶していることが茂木健一郎発言への反発で明らかになる程に風刺が乏しい稀有な国であり、
《倫理》的テーマの展開も、下手に普遍化して何らかのタブーに触れることを恐れてるのかどうかわかりませんが、ハリウッド映画などと比べて弱い感じがします。
理性的な立場を保持するには、自分が直面する状況から一旦距離を置いて捉え直す、いわゆるコペルニクス的展開が大事な筈ですが、
日本のマスコミや教育自体が、与えられた見解を(一時的であっても、レトリカルなレベルでさえも)否定したがらない態度を続けてきたせいもあって、
理性的客観的な判断が効く日本人が減ってきているのかもしれません。
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takahashi
at 2018-04-11 12:53
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高畑勲の「自己批判」(理に対する情の弱さ)を踏まえて、「若者の中で、ジブリ映画への絶賛感動と9条改憲肯定の意識は矛盾せず両立する」と看破された論旨、胸を突かれる思いで拝読しました。じっさい、右翼は、中国や韓国は日本の豊かな自然や高度な技術をいつも狙っている、と教え込んできました。私には明らかに反戦映画にしか見えない作品が、別の立場からは現極右政権の肯定につながることはあると思いました。
前のかたが話題にされた「この世界の片隅に」もまた、私には極めてすぐれた反戦映画だと思われましたが、TVやネットの批評の多くで、戦時中であっても人間らしい暮しを模索している主人公に共感する、などという意見が目立ちました。心頭滅却すれば火もまた涼しか、戦争になったっていきていける、式の理解です。
なぜ戦争が起きるのか。資本主義のメカニズムとからめて論理的に理解する必要があると思いました。
ありがとうございました。
前のかたが話題にされた「この世界の片隅に」もまた、私には極めてすぐれた反戦映画だと思われましたが、TVやネットの批評の多くで、戦時中であっても人間らしい暮しを模索している主人公に共感する、などという意見が目立ちました。心頭滅却すれば火もまた涼しか、戦争になったっていきていける、式の理解です。
なぜ戦争が起きるのか。資本主義のメカニズムとからめて論理的に理解する必要があると思いました。
ありがとうございました。
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玄明
at 2018-04-14 09:21
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原作者 野坂昭如氏にとって妹の「餓死」というのはとても重く、親友 永六輔さんですら、一緒の食事はおろか、野坂氏が食べているところも見たことがなかったという。
そんな2人と同世代の、大橋巨泉のひとことを改めて
「戦争とは爺さんが始めて、おっさんが命令し、若者たちが死んでゆくもの。戦争は狂気です…」
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