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『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について

『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12465271.jpg『君たちはどう生きるか』の中の「生産関係」について、一点、指摘をしておきたい。この言葉は、作品全体の中できわめて重要なキーワードで、主人公が「コペル君」というニックネームを持った理由と密接に関係している。その物語の経緯については、あらためて紹介する必要もないだろう。コペル君が発見して名づけた「人間分子の関係 編み目の法則」の直観と報告が、おじさんによって概念的に整理され、それが経済学の「生産関係」であり、社会科学で一般的に使われている術語であることが説明される。丸山真男は付録の「回想」でこう書いている。「コペル君が小さい頭で、いかにも幼いコペル君にふさわしい推論を積みかさねて『法則』に到達する過程が、すこしも『大人』の立場からの投影という印象を与えず、きわめて自然に描かれているのにも感心しますが、おじさんがこの手紙を承けて、そこから一方ではコペル君をはげましつつ、他方で『人間分子の法則』の足りないところを補いながら、それを『生産関係』の説明まで持ってゆくところに読みすすんで私は思わず唸りました。これはまさしく『資本論入門』ではないか。(略)資本論の入門書は、どんなによくできていても、資本論の入門書であるかぎりにおいてどうしても資本論の構成をいわば不動の前提として、それをできるだけ平明な表現に書き直すことに落ち着きます」(P.312-313)。



『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12470773.jpg「つまり資本論の演繹です。ところが『君たちは..』の場合は、ちょうどその逆で、あくまでコペル君のごく身近に転がっている、ありふれた事物の観察とその経験から出発し、『ありふれたように』見えることが、いかにありふれた見聞に属さない、複雑な社会関係とその法則の具象化であるか、ということを一段一段と十四歳の少年に得心させてゆくわけです。一個の商品のなかに、全生産関係がいわば『封じ込められ』ている、という命題からはじまる資本論の著名な書き出しも、実質的には同じことを言おうとしております。けれどもとっくにおなじみの『知識』になっているつもりでいた、この書き出しを、こういう仕方で噛みくだいて叙べられると、私は、自分のこれまでの理解がいかに「書物的(ブッキッシュ)であり、したがって、もののじかの観察を通さないコトバの上の知識にすぎなかったかを、いまさらのように思い知らされました」(P.313)。丸山真男のこの解説と評価は、実に素晴らしく、華麗で明快な説得の表現にこちらが唸らされる。だが、マルクスを読んだ者なら、「生産関係」の用語についてオヤと思うはずだ。コペル君が発見した「人間分子の法則」は、確かに資本論の冒頭でマルクスが述べた資本主義社会の商品論の総括に違いないが、それは、われわれの通念と表象にある「生産関係」とは少し違う。同じようでありつつ、少し意味が異なる。

『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12472100.jpg簡単に言えば、一般的なマルクスの「生産関係」の意味は、そこに単なる社会的分業の水平的関係だけでなく、所有の側面を含む垂直的関係が含意され、支配階級と被支配階級の対立対抗の関係が意味されているものだ。つまり、ヨコの人間関係よりもタテの人間関係が意識されている。具体的には、この言葉は、生産力と生産関係の矛盾、というマルクスの史的唯物論の公式 - 『経済学批判』の序言の有名な「導きの糸」 - に従って理解されている。『共産党宣言』にもあるように、マルクスの考え方では、ある発展段階にある経済社会は、その基礎をなす生産力の増大と向上と進歩によって、固定化された生産関係と齟齬・矛盾するようになり、やがて古い生産関係が破砕されて新しい歴史的段階に移行するという道をたどる。古代社会では奴隷と貴族の関係であったものが、中世封建社会では農奴と領主の関係になり、近代資本制社会では労働者と資本家という関係に移行する。マルクスの「生産関係」の概念は、生産過程における社会的分業のヨコの広がりと繋がりという意味ではなく、生産手段の所有・非所有によって隔てられる階級対立のタテの関係として説かれている。「生産力と生産関係の矛盾」という言説で、常に「生産力」とセットで論じられる概念であり、すなわち、土台上部構造論の一部をなすキーコンセプトとして了解されてきた。ということは、多くの者に頷いてもらえるだろう。

『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12474458.jpg『君たちはどう生きるか』で登場する「人間分子の法則」は、どこまでもフラットでニュートラルな社会的分業の商品生産関係であり、原材料が加工され、工場で製造され、運搬され流通されて、消費者に購入される平面のパノラマである。そこに資本家は登場しない。生産者は賃金労働者の姿としては描かれない。垂直的関係の契機は無視されている。単に一個の商品に編み込まれた社会的分業の総体を、おじさん(吉野源三郎)は「生産関係」と教説している。そしてまた、その点に丸山真男はコメントせず、注釈を付すことなく、吉野源三郎の「生産関係」の説明をそのまま認め、これぞマルクスの「生産関係」概念の基礎教育の手本だと絶賛している。私が、オヤと感じたのはそこだ。念のため、1965年に岩波から刊行された「経済学辞典」を引き、「生産関係」の語の説明文を転載しよう。見田石介(宗介の実父)が執筆している。「人間はつねに共同的に、相互の間に一定の関係をとりむすんで生産を行うが、この物質的生産上の人間相互の関係が生産関係である。生産関係は、土地、森林、地下資源、原材料、道具、機械、工場、道路、港湾などの生産手段が社会の成員のあいだにいかに分配されているかによって根本的に規定されている。したがって生産手段が一部の個人や集団の手で独占されて、他の成員がそれから除外されているか、それとも社会の全成員の所有になっているか、言い換えると社会の成員の関係が階級的であるか、無階級的であるかが、生産関係の二大種別なる」(P.670)。

『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12475940.jpg「生産関係は、社会の生産の規定的な目的、推進的な動機を決定する。無階級社会では生産の目的、生産の推進力となるのは、全成員の欲望の充足であるが、階級社会では、それは所有者階級のための剰余生産物の生産であり、資本主義社会では資本家のための剰余価値の生産である。一つの社会の生産の様式は、それが個人的におこなわれるか集団的におこなわれるか、道具を用いるか機械を用いるか、農業が主であるか工業が主であるか、という生産力の一定の発展水準に照応した技術的・質料的な様式によって区別されるだけでなく、またその規定的な目的が何であり、誰のために、何のために生産されるか、生産者大衆は生産に関心をもっているかによって、つまりその生産関係のいかんによっても区別される。この二つの統一が生産様式であり、これがマルクス主義経済学の対象である。(略)生産力の発展水準と生産関係とは基本的には照応するのであって、一つの生産関係のもとで発展した生産力は、結局は現存の生産関係を破壊し、それにふさわしい生産関係をもってそれに代えることになる」(P.670-671)。と、このように、古典的に説明されている。余談ながら、この大阪市大経済研究所が編纂した岩波の経済学辞典は、第1版第11刷(75年)が発行された当時でも定価4000円の高価な代物で、私は大学2年のときに大枚をはたいて購入した。法律学の勉強はせず、関心のある経済学と経済関係の本ばかり貪り読んでいた。

『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12481409.jpgマルクス主義哲学者だった見田石介は、戦後の民科哲学部会を主導、大阪市大に招かれて経済学部の経済哲学の講座を担当する。弟子に林直道がおり、この辞典の編集でも大活躍していて、70年代半ばの時代は林直道の全盛期だった。「生産関係」の語の意味が一般的にどのように理解されていたかの確認は、この辞典からの転載で十分だろう。所有とか階級とかの契機が入らなくては、それはマルクス経済学の生産関係の意味にならない。が、吉野源三郎が『君たちは』の中で「人間分子の法則」と等値している「生産関係」にはそうした要素がなく、分業と協業という直接生産者のヨコの繋がりだけで概念されている。商品生産におけるタテの関係は捨象されている。少年向けの本であり、認識の成長(客観化・自己対象化)を促す読本だから、そこに無理に、階級だの所有だののクリティカルな側面を割り込ませる必要はなかったのだろう。だが、しかし、そこで敢えて、吉野源三郎は「社会的分業」で済まさず、「生産関係」という術語を紹介し、それをコペル君(読者の少年)に知識提供するということをしている。普通に考えれば、それは史的唯物論の基礎に導く教育行為であり、マルクスの資本論に導く思考回路の示唆ということになるだろう。当時の社会科学とはマルクス主義のことで、インテリが学んでいた最新で最先端の学問体系と理論的説得力はマルクス主義だったから、「おじさん」によるコペル君への啓蒙営為は当時の日本において標準的なもので、当然の知的プロトコルだったと言っていい。

『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12483469.jpgが、時代は1937年であり、本が出た1か月前に盧溝橋事件が起き、戦争が始まっていて、治安維持法下においてマルクス主義は国体に仇する危険思想の位置づけだった。4年前の1933年に小林多喜二が特高に捕縛され、尋問時の拷問で虐殺されている。野呂栄太郎も検挙され、翌34年に獄死させられた。2年前の1935年には天皇機関説事件が起こり、貴族院議員で東大教授の美濃部達吉が辞職に追い込まれている。1936年には思想犯保護観察法が公布、1937年には山田盛太郎・平野義太郎ら講座派の研究者が一斉検挙されていた。そういう思想弾圧下での出版だったから、吉野源三郎の説く「生産関係」も命がけの文筆活動であり、したがって、そこに所有だの階級だのの面倒な説明は入れず、フラットな社会的分業だけの意味にとどめ、言葉だけ「生産関係」と入れて、暗黙裏にマルクスへの通路を指導するという方法を採ったのだろう。「生産関係」という言葉を、マルクス主義独特の言葉として説明せず、あるいはマルクス主義の概念に忠実な形で解釈せず、微妙に別の意味に変えつつ、当時の経済学と社会学の一般的な用語に仕立てているところが、吉野源三郎の作為であり、天皇制ファシズムの思想弾圧との緊張感を伴うところの、周到な高等戦術だったのではないかと私は推測する。私なりの仮説である。しかし、それでは、丸山真男は、どうして1981年の時点でそうした点に言及せず、吉野源三郎の「生産関係」とマルクス主義の「生産関係」の異同に着目しなかったのだろう。

無論、このことは本のテーマからすれば、さほど大きな問題ではないし、敢えて丸山真男が紙幅を割いて「回想」で言及するほどの事柄ではないからとも言える。が、どうもそれだけでもないように私は想像力を膨らませる。マルクスの「生産関係」概念そのものが、マルクスの研究人生の中で微妙に変化を遂げている事実は、マルクスの理論に詳しい者には常識である。その問題は後世になって、スターリン批判以降に活発に論争された。そのことを丸山真男が知らないはずがない。


『君たちはどう生きるか』における「生産関係」の問題について_c0315619_12485680.jpg

by yoniumuhibi | 2017-11-28 23:30 | Comments(1)
Commented at 2017-11-29 11:50 x
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