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生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得

生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16483788.jpg予告されていた生前退位のお気持ち表明が、昨日(8/8)、つつがなく行われて安堵している。今日(8/9)の朝日新聞を読むと、文案作成の最初の段階では、より強い調子で退位の意向が盛り込まれていたとある。官邸との事前調整が図られた結果、抑制された表現になった。朝日の記者たちには宮内庁を通じて内々に知らされているのだろうが、オリジナルの原稿を読んでみたいものだ。控え目な表現になったとはいえ、言葉は正面から直接に国民にメッセージを発するものになっていて、論旨はわかりやすく、意味が曖昧にならないように工夫されていた。生前退位の希望を言い、その理由と必要を説き、そのためには皇室制度の改定が必要であることを伝え、国民に願いを叶えて欲しいと訴えていた。期待していたとおりの言葉であり、感動して聴き入った。テレビの前の人々は、私も含めて、あらためて一人一人が憲法に書かれた国民であることを再認識し、日本国の主権者であることを自覚したことだろう。天皇陛下にお願いをされる立場なのだ。地べたに這いつくばって生きている一人一人の衆生は、しかし、形式上は国家を舵取りする主体的人格である国民なのである。フィクションとしての国民主権。その社会科学的真実を、不思議な感覚とともに、昨日ほど強く思い知った体験はあるまい。



生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16484845.jpg天皇陛下の11分間のお気持ち表明の内容は、まさに象徴天皇論の講義そのものだったと言える。憲法1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。この条文規定について、10年以上ブログで意味を考え、思考と試論を続けてきた者として、昨日(8/8)の一事は特に感慨深いものだった。学校教育では、この第1条についてあまり積極的な説明を受けた記憶がない。無理もない。その頃は昭和天皇が生きていた時代であり、教師や教官たちはみな戦争を経験した者ばかりで、天皇とは昭和天皇のことだったからだ。「日本国民統合の象徴」とはどういうことか、その地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」とはどういうことか、私は独自に手探りで持論を組み立てるしかなく、そこに戦後社会科学のスタンダードな概論はなかった。総じて言えば、戦後社会科学は、君主制は廃絶され共和制に移行することが人類史の普遍的な流れと歩みであり、日本もその例外ではないという観点が基調にあり、日本国憲法の象徴天皇制について、言わば、戦前の大日本帝国の神聖絶対君主と将来の共和制移行への過渡期にある、歴史的な「妥協の産物」のような冷淡な扱いがされていた。

生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16485975.jpg私の30代の読書は司馬遼太郎が中心だったが、その影響を受けて、日本の伝統という問題を考えるようになり、固有の伝統を継承しつつ理想的な民主主義国家を実現することを謳った日本国憲法に、私は次第に惹かれ、強いコミットの感覚を持つようになった。年をとった今では、日本は日本でしかなく、衆生は衆生でしかなく、日本人はキリスト教徒的な生き方は難しいのではないかという、諦念に似た観想の中にあり、つまり、丸山真男が戦後すぐの段階で言ったような、新しい伝統を作るという考え方には消極的な気分と立場にある。そして、現天皇陛下のチャレンジを見ながら、天皇制というものを、個人の主体的自立を阻む宿痾として否定的に捉える見方 - それは丸山真男が唱えて以来、戦後日本の論壇と教育で通説となった観念だけれども - とは別の、理念的な象徴天皇制像もあり、その国家体制を担う民主主義的で市民的な国民像もあるのではないかという意識に変わってきた。そうした想念が確信あるいは信念になるにおいては、国家や国民を全否定する脱構築主義に対する激しい嫌悪と拒絶が私の中にあり、彼ら脱構築主義貴族たちの社会的無責任と政治的無知に対する憤懣と軽蔑が、象徴天皇制と日本国憲法へのコミットを媒介していることは間違いない。

生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16491232.jpg憲法1条の意味は重く、あくまで主権者は国民であり、天皇が国民に尊敬される実質が無いかぎり、天皇は象徴天皇たり得ないのだという真実が置かれている。世襲で地位に就いたから象徴天皇なのではなく、象徴としての責務をよく果たし、努力を積み重ね、国民の期待に応え、人格と実績を認められ、国民に慕われ尊敬されるから象徴天皇なのだと、第1条はそう言っている。第1条の象徴天皇制の規定は、どこまでも関係的な性格のもので、可変的なものであり、固定的で飾り人形的なものではない。という第1条論を、10年間、縷々述べてきたが、そのことが、昨日(8/8)の天皇陛下のお気持ち表明とNHKの特集番組の中で正しく説明されていた。私が特に感じ入ったのは以下の部分である。「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」。

生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16492469.jpg「こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」。素晴らしい文章だと思う。この一節は、象徴天皇制の理念と本質を語る文言として、参照され、教育され、一般論として定着していくことだろう。天皇と国民とは互いに心から信頼し敬愛し合う関係じゃないといけないと言っている。この部分は、センテンスとして長めになっているところがあり、推敲に苦心した経緯が窺える。おそらく、官邸とのやりとりの中で修正を加えたのは、この部分だろう。もっとラディカルな象徴天皇制論があり、日本国憲法論があったかもしれず、いつまで経っても生前退位の要望を棚ざらしにしてきた政府に対する批判もあったかもしれない。

生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16493583.jpgここで示されている象徴天皇制論は、政府や国会の事務に権威づけをする国事行為よりも、国民と直接ふれあう公的行事の方が大切なのだということが語られている。被災地に訪問して避難所の人々を励ますことや、全国の障害者や高齢者の福祉施設を尋ねて入所者を励ますことの方が、憲法第1条の象徴の行為として重要なのだと言っている。そうした国民と天皇との関係の中で、第1条の「総意」が実現し担保されるのだと説いていて、これを欠けば第1条(象徴天皇規定)は全うされないのだと言っている。こうした公的行事の積み重ねこそが、憲法第1条を全くする国民と天皇の主体性を育むのだと言っている。そして、この中身を、次代の天皇である徳仁皇太子も引き継いでくれと諭していて、同時に、国民もこの関係性を大事にして守って欲しいと要請している。こうして象徴天皇制についての信念が熱く説明され、安倍晋三や政府が言ってきたところの公務負担軽減論や摂政代行論は一蹴される結論となった。摂政を置けばいいじゃないかという右翼や政権の主張に対して、天皇陛下がどういう反論をするか注目したが、きわめて直截的な表現で切り捨てている。カタルシスを覚えた。公的行事にプライオリティはつけられないという断定も見事だ。

生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16494430.jpg象徴天皇制の意義の基礎づけとして、ほぼ完璧なロジックが展開されていて、瑕疵や陥穽になると思われる点が見当たらない。説得的だ。マスコミとネットでは、今回のお気持ち表明を「平成の玉音放送」と呼ぶ声が上がっている。まさにそう呼ぶに相応しい真夏の国民的体験だった。この体験を通して、あらためてこの国の人々は、自分たちの国が立憲君主制の国であり、他の国とは異質の国家体制だということを感じただろう。また、普段は特に意識していない天皇と政治という問題について考え、そこに積極的な可能性があることを直感したに違いない。玉音放送など過去のものだと思っていた人は、眼前の玉音放送の出現に驚愕したはずだ。さらに、玉音放送も悪くないなと思ったのではないか。安倍晋三や政治家たちの無意味な演説に付き合わされて不快になるよりも、誠実で謙虚な天皇陛下の言葉を聞く方がずっと心地がよい。玉音放送の政治は、この国では何度でも繰り返し起こるものだということを、今回あらためて感じた。天皇制を続けるかぎり、同じ事は再現されるし、それが日本という国のあり方なのであり、他の国と異なる特質なのだ。日本国憲法に忠実な今の天皇陛下自身が、自ら玉音放送という冒険を選んだわけで、この手法は今後も引き継がれ、象徴天皇制の下での先例となるだろう。

天皇がこうして国の制度や法律に口出ししたり、改変の要求をすることは、国政の権能を有しないと規定した憲法第4条に違反するのではないかという声がある。しかし、皇室典範は皇室のあり方を定めたもので、それは天皇と家族の生活や人生に直接関わるものだ。女系女性天皇の問題提起のときも、口火を切ったのは天皇自身で、やむにやまれぬ(雅子妃と愛子内親王の)事情があったからだった。天皇が皇室制度に口出しできないとなると、天皇とその家族は政府の奴隷かロボットということになる。こうした非人間的なあり方を継続することは、今の日本国憲法の精神に反するもので、皇室の制度について天皇が発言する最低限度の言論の自由は保障するべきで、第4条はそのように解釈するべきだろう。


生前退位のお気持ちの表明 - 象徴天皇制の理念の見事な説明と説得_c0315619_16495977.jpg

by yoniumuhibi | 2016-08-09 23:30 | Comments(3)
Commented at 2016-08-09 21:12 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2016-08-09 21:18 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 民主主義としての象徴天皇制 at 2016-08-09 21:32 x
 象徴天皇としての務めというのは、つまり現天皇の行ってきた行為すべてを指す。現天皇こそが、「象徴天皇とはどのような存在であるのか」ということを、実際の行動をもって示してきた。
 平和を訴え(慰霊の旅など)、弱者に寄り添い(障害者施設や被災者を見舞うなど)、天皇という仕組みが戦前のように利用されることを防ぐ(園遊会での「強制でないことが望ましい」との発言など)。
 そのような務めができなければ象徴天皇ではない。自分のしてきた務めが「縮小」されてはならないという意志を示した。
 「国民の理解を得られることを切に願っています。」という最後のお言葉の意味は、現政府に対する不信の表れであり、牽制なのだ。圧倒的多数の国民が生前退位に理解を示していることは、メディアの世論調査で既に明らかであり、そのことは天皇陛下もご存知のはずだ。
 今回の「生前退位」という問題は、国民統合の象徴たる天皇と、その天皇を象徴として認めている国民との直接的な理解によって決まるのであり、政府などの介在する余地はないということだ。「私は国民の理解だけを求めているのであり、政治家の思惑・理解など必要ない」ということだ。
 憲法によって規定されている「象徴天皇」の務めを果たすための生前退位なのだから、憲法を変える必要などない。今回のことを憲法変更のテコにされてはならない。
 天皇陛下を利用することだけを考え、陛下に対して敬意を払わないウルトラライトの安倍晋三などに、何かさせてはならない。あの不満そうな顔は何だ?!
 帝国憲法の時代に作られた皇室典範を、ほんの少しマイナーチェンジしただけで使い続けているところに問題がある。ダマされてはいけない。さっさと皇室典範を、現憲法にふさわしく直せばいいだけである。


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