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辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』

辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17231799.jpg辺見庸のインタビューが、昨日(1/21)の朝日のオピニオン面(15面)に載っていた。SEALDs批判のくだりがあり、次のように言っている。「あれは『現象』だと思うけれど、ムーブメント(運動)とは考えてません。まだスローガンみたいな言葉しか言えてないじゃないですか。ぼくはそこに何も新しいものを感じない。もっと迂遠で深い思想というか、内面の深いところをえぐるような言葉が必要だと思います」。「例えば米国や欧州でのサミットに反対するデモは、資本主義のあり方そのものに反対している。(略)日本とは『怒りの強度』が全然違う。なぜ、国会前デモのあとに行儀良く道路の掃除なんかできるんでしょうかね」。「むしろ現状維持を願っているような感じがしますね」。「『怒りの芯』がない。それは言葉の芯とともにどこかに消失してしまったんでしょう」「この社会システムが必要なのは購買者・消費者としての人間であって、怒る人間とか変革する人間ではないということだと思うんです。『人間』を締め出していると言うんですかね。疎外ということです」。SEALDs運動の発する言葉には「怒りの芯」がないと言い、聞く者の内面に響く言葉がなく、体制に順応的だと言っている。これらの指摘は、私が昨年7月からずっと言ってきたことと同じで、共通の認識と主張である。



辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17232755.jpgこうして朝日の紙上で、左翼リベラルに人気のある著名文化人からSEALDsが批判されるのは、今回が初めてのことだ。朝日はSEALDsの有力な宣伝機関の一つで、SEALDsを美化する言論ばかり撒いてきた。このインタビューは、SEALDs信仰に浸りきった左翼リベラルにとって一つの事件であり、SEALDsで商売を回して快調に営業している左翼リベラルの業界を痛打する一撃だろう。影響は小さくないと思われる。9月末に辺見庸が日記でSEALDs批判をやったとき、Twの反響は辺見庸への非難一色だった。「読んだら吐きそうになった」「クズじゃん」「劣化したなあ」「晩節を汚したな」「年は取りたくないもんだ」「病気が悪化したのではなかろうか」「時代の変化に着いていけない焦りなのか」、など、辺見庸への罵倒と憎悪で埋め尽くされ、擁護したり共感したりする意見はゼロに等しかった。ところが今回の反応を見ると、4ヶ月前と較べてずいぶん雰囲気が変わっていて、前向きな感想も幾つかあり、全体として、論評抜きにリンクだけを紹介している者が多い。水野誠一による「時代遅れ」の批判も上がっておらず、4ヶ月の時の流れを感じさせられる。尤も、辺見庸のSEALDs批判の言動そのものが、9月のときの辛辣な毒舌とは変わっていて、大手紙のプロトコルに準拠した無害で穏当なものに変わっている。

辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17233696.jpgこの辺見庸のSEALDs批判を受け、早速、しばき隊が迎撃行動を起こして辺見庸への攻撃を続けているが、市民連合による1人区の「野党共闘」の動きが頓挫して四苦八苦する今、この朝日のインタビューは、SEALDsとしばき隊にとって泣きっ面に蜂の災難だろう。朝日の思惑の何如という点も深読みして考える必要がある。時代が変わっているのだから、学生の政治運動のスタイルも変わって当然と言えばそのとおりだろうが、SEALDsの場合は、最初から言葉がなく、言葉の代わりにギラギラした現世的野心というか、広告代理店ビジネスの指向性というか、テレビ業界や出版業界との商売の動機と論理からの親和性が濃厚だった。私の中にある「学生運動」の概念から程遠いものに見えたことは確かである。80年代以降の学生のサークル活動や大学祭の態様が、学外のイベント業者と積極的に癒着する方向に走り、言わば、文科省に先んじて新自由主義的な「産学協働」を実践し、学生たちが拝金主義のカルチャーを全面肯定していた事実を、私はここで想起せざるを得ない。小遣い稼ぎと卒業後のコネ作りを愉しみながら、彼らは「古い時代の学生」像を嘲笑い、「大学は真理探究の場」とする理念に唾を吐いていた。その若者の意識は、戦後社会科学を否定し、戦後日本の倫理思想を否定する、脱構築主義のイデオロギーと重なっていた。

辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17234513.jpg辺見庸が、「この社会システムが必要なのは購買者・消費者としての人間であって、怒る人間とか変革する人間ではないということだと思うんです」と言うときの、「この社会システム」とは、単に一般的な今の現実社会を意味しているだけではなくて、SEALDs運動の信者になってデモで単純コールを連呼し、SEALDs関連の商品(グッズ)を店頭で購入して満足な気分になっている左翼リベラルの大衆と、そのマーケットとインダストリーの「社会システム」をも指しているのではないかと、そう思われてならない。左翼リベラルの世界が業界化して無思想に固着し循環しているという問題点を、私は2014年の都知事選のときに提起し、「業界左翼」とか「東京左翼」とかの造語で説明を試みたことがあったが、2015年のSEALDs現象は、その認識への確信をさらに深めるものだった。早い話が、SEALDsの学生はSMAPであり、しばき隊(学者)はジャニーズ事務所で、国会正門前交差点北東角の狭い空間に屯する著名人や出版編集者やカメラマンの一団は、テレビ局のプロデューサーなど芸能界のスタッフだという構図になる。辺見庸の言うとおり、SEALDsには言葉がないが、SEALDsの父兄 - 内田樹や高橋源一郎や小熊英二 - にも言葉がなく、SEALDsのファンである左翼リベラル大衆にも言葉がない。消費だけがある。父兄には事業の超過利潤の蜜がある。

辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_172356100.jpgインタビューの趣旨として辺見庸が述べたことは、この半年以上、ずっと辺見庸が日記で論じてきたことで、その一つの核心は、新自由主義の現実に対する対抗思想としてのマルクスの資本主義批判であり、『経済学・哲学草稿』における疎外論の強調である。インタビューには、「疎外」という言葉は登場するが、マルクスの名前も出ないし、『経済学・哲学草稿』も紹介されてない。が、辺見庸が声に出して言いたい中身はそこにあり、資本主義の本質的矛盾を抉出し、人間の生き方と資本主義との関係を洞察したマルクスの哲学の意義だっただろう。辺見庸が言っているところの、「怒りの芯」がないとか、変革の端緒がないとか、資本主義を批判する契機がないというのは、要するに、そこにマルクス的なラディカルな思想性(社会主義)がないという意味だ。ただ、朝日の紙上でそれを直截に言挙げすれば、何か浮いた感じになり、古臭く教条的なイメージになって説得力が失われるので、中身を並べるのは省略したのだろう。1960年代、学生運動が盛んだった頃、初期マルクス、特に『ドイツ・イデオロギー』と『経済学・哲学手稿』は聖典のような扱いで知識人に読まれ、若者たちに広く読まれた。廣松渉や古在由重や真下真一の注釈を手がかりに、『資本論』のように分量がなく頁数が薄いことを頼りにして、難解だけれども皆がそれを精読した。自主的に読書会を作って、労働論、疎外論、貨幣論、私的所有論、類的存在論、等々のエッセンスを学んだ。

辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17241025.jpgどんなことが書いてあるのか。こんなことが書いてある。「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大とぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。(略)さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。国民経済的状態(資本主義)の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現われる。(略)すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。(略)彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。(略)彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる」(岩波文庫 P.86-90)。

辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17242527.jpg「シェークスピアは貨幣について特に二つの属性を浮き彫りにしている。(1)貨幣は目に見える神であり、一切の人間的なまた自然的な諸属性をその反対のものへと変ずるものであり、諸事物の全般的な倒錯と転倒である。(略)(2)貨幣は一般的な娼婦であり、人間と諸国民との一般的な取り持ち役である。(略)こうしてまた貨幣は、個人に対しても、そしてそれ自身本質であると主張する社会的等々の紐帯に対しても、こうした転倒をさせる力として現われるのである。それは誠実を不誠実に、愛を憎に、憎を愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、奴隷を主人に、主人を奴隷に、愚鈍を理知に、理知を愚鈍に変ずる。実存しつつあり活動しつつある価値の概念としての貨幣は、一切の事物を倒錯させ置換するのであるから、それは一切の事物の全般的な倒錯と置換であり、したがって転倒した世界であり、一切の自然的ならびに人間的な性質の倒錯と置換である。(略)人間を人間として、また世界に対する人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。(略)もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である」(同 P.183-187)。

辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17271952.jpgこの著作はマルクス26歳のときのもので、燃えるような理想主義と詩的感性で筆が運ばれた哲学書の傑作だ。この一冊も、あるいは『ドイツ・イデオロギー』も、「世に倦む選書」の中に収めたかったが、日本の民主主義を考える上での必読文献というテーマに焦点を絞ったため、ソクラテスとかマルクスの古典は選外に置かざるを得なかった。マルクスの初期古典での本質的な資本主義批判は、ものの見方考え方として、70年代以前の学生には一般的に教育され、基礎的な教養として身につけられていたものだ。今、資本主義批判の理論が教育されないため、上に紹介したような思想は人々の常識になっていない。「マルクス」や「社会主義」には悪性のレッテルが貼られ、デフォルトで排斥され、猛毒の化学薬品のような扱いで封殺処分されていて、人が接近することすらできない邪教になってしまっている。辺見庸にインタビューした二人の朝日の記者も、この著作を読んでないだろうし、話を聞きながら『経済学・哲学草稿』が念頭に浮かぶということはなかっただろう。マルクスの顔が浮かんだかどうかも怪しい。「古臭い昔の左翼の話だなあ」と、興味を持てずに斬り捨てていたに違いない。2年前、「業界左翼」や「東京左翼」なりの範疇を思いつき、納得しながらそれをタームとして使っている私は、昨年より、SEALDs運動やしばき隊学者の所業を見ながら、また新しい造語の着想を閃いてしまった。それは、「植民地左翼」と「反体制資本主義」という二つの語だ。

SEALDs運動のプラカードは横文字ばかりが並んでいた。また、あのワンパターンのコールが、米国の市民運動のモノマネだということは当事者が自ら証言している。しばき隊学者は、現代のアメリカの政治運動の研究が専門らしく、他のことは何も知らず、古典研究もしておらず、およそ日本の政治学者の一般像とは程遠いところにある。通常、政治学者とは思想史の研究領域を持つ者を指すものだ。このところ、日本の政治学者は社会学者と同じ存在になってしまった。革命家のレーニンは、帝国主義の研究を通じて「労働貴族」という概念を編み出し、政治の一般用語として定着するところとなった。「業界左翼」、「東京左翼」、「植民地左翼」、「反体制資本主義」、私もチャレンジをしようと思う。


辺見庸のインタビューのSEALDs批判とマルクスの『経済学・哲学草稿』_c0315619_17245648.jpg

by yoniumuhibi | 2016-01-22 23:45 | Comments(0)


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