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村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である

村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である_c0315619_1871242.jpg村上春樹の『職業としての小説家』を読んだ。12の小論で構成され、全体で313頁の本。途中まで読んだところで、また最初に戻って読み始めた。この本には感動させられた。文句なしに今年のベスト。村上春樹の作品はこれまで小説しか読んだことがなく、いわゆるエッセイに類するものは初めてだが、今回のものは≪ですます≫形式の文体で綴られていた。文章のスタイルが意外で新鮮であり、同時にとにかく完成度が高く、抜群に説得的で、最初の1ページを読んですぐに惹き込まれて夢中になった。村上春樹の日本語の文章は本当に素晴らしい。エレガントで、しなやかで、無駄や窮屈さがなく、独り善がりの空回りがない。論理がよく設計され、センテンスの造形が抜群だ。句読点の間隔のバランスがよく、漢字とカタカナとひらがなの配分が見事で、読みやすく、見やすい。言葉の使い方と置き方の妙に唸らされる。飢えていたものを満たしてくれるような、冒頭からそんな気分にさせられた。私は言葉に飢えていて、知性と気品のある良質な日本語に餓えている。ネットの不毛な荒野で生息し、心をすさませ、絶望と憔悴に塞ぎながら、言葉に出会うこと、言葉に癒されることを求め、美しい日本語を発見して救済されることを切なく希っている。この作品を読んで最初に感じたのは、これだこれだ、探していたものはこれだという昂奮と律動だった。村上春樹は日本語の最高の芸術家だ。



村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である_c0315619_1872667.jpg「初の自伝的エッセイ」として紹介されているこの本は、文章読本であり、人生読本である。文学や小説を志す若い者にとって貴重な入門の教本となるものだ。また、文章を書いて仕事をしている者にとって、どれだけヒントになる啓示が詰まっているか分からず、スランプやジレンマに陥っている者に救いと導きを与えているか分からない。報告であれ、記事であれ、評論であれ、論文であれ、文章を書いて生計を立てている者は世の中に多くいる。一日の多くの時間を原稿作成のために割いている者は無数にいる。おそらく、そうした生業の者が社会全体に占める比率は、増えこそすれ減ることはないはずで、マルクスの生産力論 - 史的唯物論の理想的展望 - に真理的根拠を見出すとすれば、そういう、文章に携わる人間労働が社会の価値生産において比重を大きくする普遍的傾向への確信だろう。インターネットが普及し、誰もが自分の文章を発表できるようになった現在は、金銭以外の市場的評価というか、満足や成功を得るシステムの所与があり、人が自らの創造力を文章のプロダクトで外化しようとする動機や機会は日毎に大きくなっている。そういう時代に出された村上春樹の文章読本は、まさに現代人の生きる道標を示したバイブルと言える。中高年のわれわれに「どう生きるべきか」を説く本だ。この本には学ぶところが多い。

村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である_c0315619_1873817.jpg村上春樹が偉大なのは、世界の人々の心を一つにしたことである。現代世界を一つにした。村上作品に首ったけの者は世界中に限りなくいる。今、世界で最も熱く読まれ、多くの読者を魅了している作家が村上春樹である。誰もが例外なくそうだが、村上作品の主人公に即感情移入してしまう。登場する人物にそのまま自分自身を発見する。主人公の呼吸と内面が自己とぴったり重なり、自分の代わりに思考し表現していることを感じる。物語の主人公が自分と同じだから、その彼が作中で観察と内省を深く掘り下げ、想像力の宇宙を豊かに膨らませて、奇蹟的な世界が広がるほどに、主人公と一体化した自分の精神の成長と高揚を感じ、一段高い地平に飛翔して新しい(能力と覚悟と使命を持った)自己を獲得したカタルシスを覚える。読んでいる途中、読み終わっても、主人公とそっくり同じ目線になりきり、例えば電車の中とか街を歩いて見えるものを、主人公と同じ言葉使いの観察者となって心の中でつぶやいたりする。当然、その主人公は村上春樹自身だ。村上春樹の観察と思考と推理と諦観が書かれている。だから、要するに、私と主人公と村上春樹は三位一体なのであり、私と村上春樹は同じなのだ。村上春樹は他人ではないのである。そして、世界中の人々がそう思っているということは、私と世界中の人々とは心が繋がっているという幸福に導かれる。

村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である_c0315619_1875136.jpgこの本の中で書いているように、村上春樹には戦争とか革命とかの大きな歴史的事件に遭遇した体験がない。名作を送り出す小説家の条件として一般的であるところの、壮絶な歴史の瞬間に立ち合った際の証言をして意味を問うという契機や動機がない。普通の、戦後の平和な時代が続く現代社会を生きた青年が描く(そして描かれる)物語だ。しかも、日本という極東の、欧米とは異文化の国の現代小説である。けれども、その異郷で生まれた普通の作品が、欧州の読者の心を捉え、米国の読者の心を離さず、韓国と中国の読者の心をグリップし、読者になった者は、例外なくそこに自分がいると実感し告白する。同じ自意識と社会認識と社会批判がある。ということは、土台上部構造論で逆から説明すれば、土台の内実が共通化してきているのであり、すべての国々が(村上春樹の言葉だが)高度資本主義の似たようなシステムの社会になっていることを意味し、そこに何の壁もないことが証明されているということだ。中国も日本も米国も、同じ現代社会がそこにあり、悩める現代人が孤独に生きていて、都市空間を徘徊し彷徨しながら、自分と周囲と社会とを同じ言葉で見つめ語っている。共感は同じで、国による壁はない。今回の作品も、世界を意識して書かれたもので、日本の読者だけを対象にしたものではない。世界の人々に読まれ、勇気と感動を与えることだろう。村上春樹の書くものは、グローバルスタンダードの作品であり、世界市場に向けて生産されている。

村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である_c0315619_188359.jpg今、この国で、言葉を紡ぐということはとても難しい。一生懸命にやればやるほど、言葉を探して作り伝える努力をすればするほど、共感や評価ではなく反感と憎悪を買い、侮辱と罵倒と暴力と、さらに盗作の屈辱を受け取る羽目になる。そのことは、きっと多くの者が感じていることだ。そして、言葉を作り伝えて成功を得るということは、今は一義的に市場で売れるという意味であり、売れるというより、とにかく無理やり押し売りして、どうだこれだけ売ったぞと素早く勝ち名乗りすることである。河出書房新社と大月書店を知らず、それを「河出出版」「大月出版」と平気で連呼する無知な著者が、これだけ売りまくったぞと市場の成果を言い上げれば、それでベストセラーの評価が確定するのが現実だ。おそらく、著者たちは、そこに印刷されたテキストの意味を知らず、人に質問されても正しく説明することができないだろう。編集者が頁を制作しているのだろう。今、書店の商品群はほぼそのような性格のもので、代金を受け取ってしまえば終わりで、2か月ほどの商品寿命で、買った者も読むことより買うこと自体が目的だ。市場の実態がそうなっているのであり、外野がいくら文句を言っても仕方がない。今、本を購入するとはネタを消費することでしかない。辺見庸のような、意味のある言葉を真摯に誠実に紡ごうとする者は、言葉を紡ぐ主体と市場との乖離と断絶が大きすぎるものだから、文章にやたら力が入ってしまう。最新刊の冒頭部を少し読んでみたけれど、肩に力が入りすぎて、本論を叙述するのがしんどそうな印象だった。

村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である_c0315619_1881543.jpg村上春樹の場合は、不思議なほどすらすらと、軽快に華麗に、モーツァルトのように、知的で形のきれいな日本語の文章が並んでいる。そのことに驚く。普通は、辺見庸のように糞詰まり気味の重い表現になるのが自然なのだ。便秘の不具合に悩まされて、高血圧の大脳動脈への影響を恐れながら排便するように、言葉の出ない憂鬱に呻き、無力感に苛まれながら、そして世を恨み嘆きながら、一語一句ずつ何とか捻り出すというのが本当なのだ。私はこう思う。村上春樹の場合は、読むのは世界の読者であり、そこに楽観性の根拠というか、普遍的なものへの明るい希望があるのだろうと。人を信じられるのだろうと。今の日本人の市場に向けて文章を作成・発表するということは、心の折れる苦痛で困難な仕事に違いない。以前、10年前、私は、村上春樹に対して、「神よ、天空から地上に降りて人になれ」と言ったことがあった。村上春樹に早くノーベル賞を取らせたくて、大江健三郎みたいに知識人の活動をして、政治についても発言をしたらいいよと、そうしたらビジビリティが上がって、ノーベル委員会の選考のプライオリティが上がるよと、そういう意図と趣旨だった。今、振り返って、そんな安易な提案をした自分が恥ずかしくなり、村上春樹に申し訳ない気分になる。無論、村上春樹は、私のそんな記事など知らないだろうし、目にしてもいないだろうが、もし、この10年間に村上春樹にそういう負担というか心理的圧迫があったとするなら、無関係ながら、とても悪いことをしたと反省する。

無意味なことを、勘違いして注文するんじゃなかったと、それを10年前に軽薄に村上春樹に勧めた件を後悔する。ノーベル賞なんか要らない。村上春樹は世界一の小説家だ。世界一のアニメーション作家が宮崎駿であるのと同じだ。『職業としての小説家』は力作で傑作だ。ヒントを教えられ、謙虚な気持ちにさせられた。蒙を啓かれた。この国の中で、村上春樹だけが市場を超えている。


村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である_c0315619_1882995.jpg

by yoniumuhibi | 2015-11-04 23:30 | Comments(2)
Commented by グーグー at 2015-11-05 02:55 x
紀伊国屋の書店員さん、文字は変換のときに間違えないでよく校正してほしい。「最新巻」→「最新刊」。
なんだか、記事以前に、出版に携わる者として、かなり恥ずかしい。
Commented by NY金魚 at 2015-11-05 13:23 x
久々の「世に倦む春樹論」で興奮しています。新刊はまだ購入していないのですが、NY紀伊国屋で冒頭の一行を読んで、ゾクゾクと来ました。明日さっそく買ってきます。
世に倦むさまのお嫌いな内田樹もむかしの評論で、村上春樹の「世界性」について述べています。「言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、春樹の文章には土も血も臭わない」という誰かのアナクロ評論に対して、「そのことがどうして文学の『世界性の指標』ではなく『地方性の欠如』として指弾されなければならないのか」と憤慨しておられました。

話は少しずれるのですか、当方村上春樹が2011年=3-11の大震災の3ヵ月後にスペインのカタルーニャで行なったインタヴューにインスパイアされ「愛は世界を動かす大きなエンジン」というタイトルだけを決めて、現在推敲中です。カタルーニャでの日本語の演説は、ヒロシマ/ナガサキを持つ日本が、さらにフクシマを持ってしまったことと、政府のひどい対処を弾劾していて、我々には実に小気味よいわけですが、日本というローカルを「無情」という言葉を挟んで実に達者に説明しています。
今年のノーベル文学賞はベラルーシのジャーナリスト・アレクシエーヴィチがとりましたが、これはチェルノブイリというローカルと、原発反対という世界性が共存している所以かと感じました。

春樹のこれからの方向性が、荒れ果てた祖国の政治に「理想主義」を吹き込み、人びとの意識(/無意識)を変えていくような気がします。そのようなローカル性(井筒のいう文化的差異)なら、思い切り期待!ですね。


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