丸山真男の「二十四年目に語る被曝体験」 - 記憶の封印と意識の遮蔽
丸山真男の『二十四年目に語る被曝体験』。所収されている『丸山真男話文集1』(みすず)に、次のようなインタビューの記録がある。中国新聞記者の林立雄が、「広島の意味をお聞かせください」と質問を向けたのに対して、丸山真男がこう答える。「いやいや、(笑)そううまく整理されていないですよ。つまり、戦争の惨禍の一ページではないということですよね。二十四年前の。単なる戦争の一ページだったら、今日に至っても新たに原爆症患者が、なお生まれつつあるということ(略)を、一体、どう説明するか。それは(略)いわば、毎日原爆が落ちているんじゃないか。だから、広島は毎日起こりつつある現実で、毎日々々新しくわれわれに問題を突きつけている、と。単なる体験なんかじゃないと思います。(略)僕だって分かんないですよね。(略)僕の肝臓だって分からないですよ。(略)結核になったときにも、よく知っている人は『原爆が関係あるんじゃないの』なんて言います。分からないですよね。白血球なんかは、今でも少ないです」(P.484-485)。やはり、病気は原爆の影響ではないか、広島で放射性物質を取り込んだ内部被曝が原因ではないかと、本人も疑っていたことが窺える。だが、因果関係を自ら医学的に追跡することも、医師の診断や知見を得ることも積極的にはやっていなかった。
記者が、「被曝手帳をお持ちですか。先生の場合は、特別被爆者健康手帳が受けられます」と尋ねたところ、丸山真男はこう答えている。「いや、いや。被爆者手帳交付の申請をしていないんです。先ほど言いましたように、私は広島で生活していた人間というよりも、至近距離にいた傍観者なんですね」(同 P.485)。丸山真男が、被爆者手帳の申請をしていない事実が明らかにされる。インタビューのために広島から上京した林立雄にとって重大な関心事であり、いわばスクープだっただろう。だが、ここから質問が踏み込まれて会話が続く進行にはなっておらず、話題が切り換えられ、ここで途切れてしまっている。被爆者手帳を申請していない理由について、他人によく説明できる言葉がなく不具合なのだ。被爆者手帳を申請していなかった点は、NHKの特集に登場した元少年特攻兵たちも同じだった。厚労省が法律を制定して被爆者健康手帳の交付を始めたのは1957年のことで、1960年に特別被曝者者の医療費を無料化、1962年から特別被爆者の対象を広げる措置が講じられていた。丸山真男も、制度に関心はありながら、自分は当時一般市民ではなく軍の任務で広島にいた者で、すぐに離れて東京に戻ってきた身であるため、救済を申し出ることに逡巡したのだろう。
中国新聞のインタビューを受けた1969年は、その4年前の1965年の制度改正によって、丸山真男も特別被爆者の対象になっていたが、丸山真男がそのことを知っていたかどうかは怪しい。NHKの特集にあったように、悲惨な地獄の現場で軍の任務で救護活動に当たった兵士たちは、助けを求める重傷の市民に何もできず、その中で、自分が弱者を見捨てた加害者であるように感じざるを得ない苛酷で凄絶な体験を重ね、申し訳なく後ろめたい思いをずっと持ち続けていて、ありのままの真実を公に口にできないままずっと黙って時間を過ごしてきた。自らの体調の異変に気づき、その疾病の原因が被曝であることを直感しながら、広島から遠く離れた地で暮らして、今さら原爆の被害者として堂々と名乗り出ることができなかった。1945年から15年ほどは、被爆地と被爆者に対する差別と偏見が甚だしく、放射能の障害を生身の体に受けている事実を明らかにすることが本人と家族の社会的不利益に繋がり、口を閉ざさざるを得ない事情と環境があったことが推測される。おそらく丸山真男もその例外ではなく、被爆体験を言挙げできず、私的にそれを知った者も情報を拡散することがなかったのだろう。加えて50年代の丸山真男は、逆コースの中で戦後民主主義の旗手として保守反動と戦う陣頭に立つ著名知識人であり、政府が提供する医療支援策に授かることに躊躇と抵抗を覚えたに違いない。文化勲章も辞退した人だから。
8月6日の出来事について問われて、次のように答えている。「そのころから、もう市民が流れ込んできました。(投下から)十五分くらいじゃあないですか。宇品の方から逃げて来たんですね。三々五々入って来ました。その市民の姿を見て、またまた仰天したわけです。着物はぼろぼろ。女の人はパーマがめちゃくちゃになって、頭にガラスの破片がささっているものですから、血が垂れているのですね、顔にね。お岩ですよ。夏ですし、着物がやぶれていますから、女の人は毛布に体を隠して、放心したような格好で、ヨロヨロ、ヨロヨロと三々五々入って来ました。塔の前辺りで、バタッと倒れたのです。あとからあとから入って来て、広場いっぱいになっちゃったのです。海辺までずっと広場なんですけれども、ここがいっぱいになったのです、見る間に。(間)それで、真夏でしょう。背中の皮が剝けているのに、上から太陽がさんさんと照りつける。うーん、うーんと唸っているのは、セミのね、セミの声といっちゃ悪いのですけれども、異様な声ですよ。それで、薬とか何とか言って大騒ぎしたのはおぼえています。(略)それでもって、その日一日、何をしたのか全く記憶ないですね。面白いものです。僕は、その後、あの一週間を思い出そうとしたら、六日一日何をしていたのかというのは、全くおぼえてないのです。悲惨な、広場がいっぱい埋まった光景を見たというのが、最後の記憶です。記憶喪失になっちゃったんですね(同 P.469-470)。
丸山真男は8月6日の記憶を失ったと言う。これは本当だろうか。実は、インタビュー2時間、37ページ分に上る回顧談の中で、原爆が投下された地上の事実をリアルに描写しているのはこの部分だけだ。そして、これを語った後、6日の記憶は他にはないと証言している。7日は連合国軍の短波放送を傍受して参謀に報告し、8日も情報斑のデスクワークを司令部の中でやっている。広場を埋めていた夥しい負傷者たちがどうなったか、そのことについて語っておらず、関心も示していない。これは、船舶司令部の参謀たちが、市民の負傷者の救護の万全には第一の関心を寄せず、新型爆弾の機能と威力とか、原爆投下の戦局への影響とか、今後の動向とか、そんな問題ばかりに熱中していたことを示唆しているようでもあり、一等兵で下働きの丸山真男も、そうしたエリート軍人集団の空気の中にいて、思考と関心の波長をそこに合わせていた真実を浮かび上がらせているように思われる。おそらく、そうしないと意識が錯乱してどうしようもなかったのだろうし、そうやって負傷者の惨状を脳裏から遮蔽することで、どうにか睡眠や食事をとることができ、精神状態を維持することができたのだろう。意識の遮蔽が記憶の消去に繋がっている。また、戦争中の窮極のときであり、思想犯の前科者が、参謀相手に市民の救護の優先をなどと言えるはずもない。そもそも、このときは市民などという言葉も存在もない。すべて名札をつけた国民であり、銃後の兵士である。
そうした経緯とそれへの反省と呵責が、丸山真男の広島への後ろめたさの態度となり、被爆者手帳を受領して救済を受ける権利を持つという立場への意思に至らなかったのではないか。37ページ分の回顧談は、被曝体験とその地上を写実した証言録にはならず、別の話が過剰に持ち出された。参謀部の任務に絡んで、終戦を挟んだ二週間に何があったか、現代史のノンフィクションを面白可笑しく説き語る分量の方が圧倒的に多い。例えば、玉音放送の直後から、これまで「丸山、丸山」と一等兵をこき使って肥たご担ぎをさせていた参謀が、急に「丸山先生」と呼んで諂い始め、満州事変以降の歴史を講義してくれなどとと懇願し、いきなり参謀よりも偉い「先生」に昇格してしまったなどという「自慢話」の披露である。「丸山先生、天皇制はどうなるのでしょうか、廃絶されるのでしょうか」と参謀が必死で訊くから、「大丈夫ですよ、英国のように民主主義と王制が両立している例もあり、おそらく米国はそうするでしょう」と、占領後の戦後処理の見通しを述べて安堵させてやった話を自慢している。丸山真男が初めて広島での体験を中国新聞記者に語ったとき、口をついて出てきたのは、そういう、いわば丸山真男らしい現代政治史の談論風発で、悲惨な地獄を再現して語り継ぐ目撃者の証言ではなかった。24年後の1969年の丸山真男には、まだその心の準備が十分にできていなかった。結局、丸山真男は、被爆体験を思想的に考察し意味を掘り下げた作品を残すことなくこの世を去る。
78年の『思想史の方法を模索して』の中で、丸山真男は、人間というのは限りなく自己欺瞞に導かれる生きもので、したがって、本人が書いた日記とか回想録とかいう第一次史料こそ、その信憑性を疑って注意深く吟味しなくてはいけないのだと警告している。そのことを思い出しながら、さらによく考えてみると、われわれが、丸山真男の体験談を聞いて、おや、本当はどうだったのだろうと疑問に感じるのは、広島の関係者がこの30年から40年ほどの長い努力の積み重ねで、被爆直後の地上の絵を描いて再現して見せてくれ、8月6日の朝から何があったのかを、次第次第に明らかにして教育してくれたおかげであり、われわれの中に多少とも知識と表象があるからだ。46年前の1969年のときは、その丸山真男のインタビュー記事を印刷物で読んでも、言いたくても言えない何かがあるのではないかとか、不都合なことを隠しているのではないかとか、記憶が消えているのは不自然だとか、話を無理に逸らせているなとか、そういう疑念を持つことはなかっただろう。へえ、丸山真男は広島にいたのか、それは知らなかった、すごい偶然だ、驚きだなという、ただその衝撃だけだっただろう。負傷した女性を「お岩さんのようだ」と言ったり、火傷した人々の呻きを「セミの声」に喩えたりする丸山真男の表現は、被爆者を傷つける無神経のようであり、何か投げやりな、被爆者と自分との間に距離を置こうとする動機の為せる業のように感じられる。
それはきっと、当時の被爆者を見る世間の冷たい視線に敢えて合わせたのであり、故意にそうした棘のある表現を放つことで、被爆者としての自己認識をよく整理して言語化できないところの、そ営為の困難さの前に立ち竦んで戸惑う、そして不条理きわまる運命を強いられた自身の葛藤や鬱懐を表出したのだろう。政治思想史学という、意味を明らかにする学問の専門家でありながら、自己の体験をよく意味づけすることのできないくやしさともどかしさに煩悩する丸山真男が見える。このとき、丸山真男は築地の国立がんセンターに肝炎で入院して病床で質問に答えた。2時間のインタビューはドクターストップで切り上げられた。
記者が、「被曝手帳をお持ちですか。先生の場合は、特別被爆者健康手帳が受けられます」と尋ねたところ、丸山真男はこう答えている。「いや、いや。被爆者手帳交付の申請をしていないんです。先ほど言いましたように、私は広島で生活していた人間というよりも、至近距離にいた傍観者なんですね」(同 P.485)。丸山真男が、被爆者手帳の申請をしていない事実が明らかにされる。インタビューのために広島から上京した林立雄にとって重大な関心事であり、いわばスクープだっただろう。だが、ここから質問が踏み込まれて会話が続く進行にはなっておらず、話題が切り換えられ、ここで途切れてしまっている。被爆者手帳を申請していない理由について、他人によく説明できる言葉がなく不具合なのだ。被爆者手帳を申請していなかった点は、NHKの特集に登場した元少年特攻兵たちも同じだった。厚労省が法律を制定して被爆者健康手帳の交付を始めたのは1957年のことで、1960年に特別被曝者者の医療費を無料化、1962年から特別被爆者の対象を広げる措置が講じられていた。丸山真男も、制度に関心はありながら、自分は当時一般市民ではなく軍の任務で広島にいた者で、すぐに離れて東京に戻ってきた身であるため、救済を申し出ることに逡巡したのだろう。
中国新聞のインタビューを受けた1969年は、その4年前の1965年の制度改正によって、丸山真男も特別被爆者の対象になっていたが、丸山真男がそのことを知っていたかどうかは怪しい。NHKの特集にあったように、悲惨な地獄の現場で軍の任務で救護活動に当たった兵士たちは、助けを求める重傷の市民に何もできず、その中で、自分が弱者を見捨てた加害者であるように感じざるを得ない苛酷で凄絶な体験を重ね、申し訳なく後ろめたい思いをずっと持ち続けていて、ありのままの真実を公に口にできないままずっと黙って時間を過ごしてきた。自らの体調の異変に気づき、その疾病の原因が被曝であることを直感しながら、広島から遠く離れた地で暮らして、今さら原爆の被害者として堂々と名乗り出ることができなかった。1945年から15年ほどは、被爆地と被爆者に対する差別と偏見が甚だしく、放射能の障害を生身の体に受けている事実を明らかにすることが本人と家族の社会的不利益に繋がり、口を閉ざさざるを得ない事情と環境があったことが推測される。おそらく丸山真男もその例外ではなく、被爆体験を言挙げできず、私的にそれを知った者も情報を拡散することがなかったのだろう。加えて50年代の丸山真男は、逆コースの中で戦後民主主義の旗手として保守反動と戦う陣頭に立つ著名知識人であり、政府が提供する医療支援策に授かることに躊躇と抵抗を覚えたに違いない。文化勲章も辞退した人だから。
8月6日の出来事について問われて、次のように答えている。「そのころから、もう市民が流れ込んできました。(投下から)十五分くらいじゃあないですか。宇品の方から逃げて来たんですね。三々五々入って来ました。その市民の姿を見て、またまた仰天したわけです。着物はぼろぼろ。女の人はパーマがめちゃくちゃになって、頭にガラスの破片がささっているものですから、血が垂れているのですね、顔にね。お岩ですよ。夏ですし、着物がやぶれていますから、女の人は毛布に体を隠して、放心したような格好で、ヨロヨロ、ヨロヨロと三々五々入って来ました。塔の前辺りで、バタッと倒れたのです。あとからあとから入って来て、広場いっぱいになっちゃったのです。海辺までずっと広場なんですけれども、ここがいっぱいになったのです、見る間に。(間)それで、真夏でしょう。背中の皮が剝けているのに、上から太陽がさんさんと照りつける。うーん、うーんと唸っているのは、セミのね、セミの声といっちゃ悪いのですけれども、異様な声ですよ。それで、薬とか何とか言って大騒ぎしたのはおぼえています。(略)それでもって、その日一日、何をしたのか全く記憶ないですね。面白いものです。僕は、その後、あの一週間を思い出そうとしたら、六日一日何をしていたのかというのは、全くおぼえてないのです。悲惨な、広場がいっぱい埋まった光景を見たというのが、最後の記憶です。記憶喪失になっちゃったんですね(同 P.469-470)。
丸山真男は8月6日の記憶を失ったと言う。これは本当だろうか。実は、インタビュー2時間、37ページ分に上る回顧談の中で、原爆が投下された地上の事実をリアルに描写しているのはこの部分だけだ。そして、これを語った後、6日の記憶は他にはないと証言している。7日は連合国軍の短波放送を傍受して参謀に報告し、8日も情報斑のデスクワークを司令部の中でやっている。広場を埋めていた夥しい負傷者たちがどうなったか、そのことについて語っておらず、関心も示していない。これは、船舶司令部の参謀たちが、市民の負傷者の救護の万全には第一の関心を寄せず、新型爆弾の機能と威力とか、原爆投下の戦局への影響とか、今後の動向とか、そんな問題ばかりに熱中していたことを示唆しているようでもあり、一等兵で下働きの丸山真男も、そうしたエリート軍人集団の空気の中にいて、思考と関心の波長をそこに合わせていた真実を浮かび上がらせているように思われる。おそらく、そうしないと意識が錯乱してどうしようもなかったのだろうし、そうやって負傷者の惨状を脳裏から遮蔽することで、どうにか睡眠や食事をとることができ、精神状態を維持することができたのだろう。意識の遮蔽が記憶の消去に繋がっている。また、戦争中の窮極のときであり、思想犯の前科者が、参謀相手に市民の救護の優先をなどと言えるはずもない。そもそも、このときは市民などという言葉も存在もない。すべて名札をつけた国民であり、銃後の兵士である。
そうした経緯とそれへの反省と呵責が、丸山真男の広島への後ろめたさの態度となり、被爆者手帳を受領して救済を受ける権利を持つという立場への意思に至らなかったのではないか。37ページ分の回顧談は、被曝体験とその地上を写実した証言録にはならず、別の話が過剰に持ち出された。参謀部の任務に絡んで、終戦を挟んだ二週間に何があったか、現代史のノンフィクションを面白可笑しく説き語る分量の方が圧倒的に多い。例えば、玉音放送の直後から、これまで「丸山、丸山」と一等兵をこき使って肥たご担ぎをさせていた参謀が、急に「丸山先生」と呼んで諂い始め、満州事変以降の歴史を講義してくれなどとと懇願し、いきなり参謀よりも偉い「先生」に昇格してしまったなどという「自慢話」の披露である。「丸山先生、天皇制はどうなるのでしょうか、廃絶されるのでしょうか」と参謀が必死で訊くから、「大丈夫ですよ、英国のように民主主義と王制が両立している例もあり、おそらく米国はそうするでしょう」と、占領後の戦後処理の見通しを述べて安堵させてやった話を自慢している。丸山真男が初めて広島での体験を中国新聞記者に語ったとき、口をついて出てきたのは、そういう、いわば丸山真男らしい現代政治史の談論風発で、悲惨な地獄を再現して語り継ぐ目撃者の証言ではなかった。24年後の1969年の丸山真男には、まだその心の準備が十分にできていなかった。結局、丸山真男は、被爆体験を思想的に考察し意味を掘り下げた作品を残すことなくこの世を去る。
78年の『思想史の方法を模索して』の中で、丸山真男は、人間というのは限りなく自己欺瞞に導かれる生きもので、したがって、本人が書いた日記とか回想録とかいう第一次史料こそ、その信憑性を疑って注意深く吟味しなくてはいけないのだと警告している。そのことを思い出しながら、さらによく考えてみると、われわれが、丸山真男の体験談を聞いて、おや、本当はどうだったのだろうと疑問に感じるのは、広島の関係者がこの30年から40年ほどの長い努力の積み重ねで、被爆直後の地上の絵を描いて再現して見せてくれ、8月6日の朝から何があったのかを、次第次第に明らかにして教育してくれたおかげであり、われわれの中に多少とも知識と表象があるからだ。46年前の1969年のときは、その丸山真男のインタビュー記事を印刷物で読んでも、言いたくても言えない何かがあるのではないかとか、不都合なことを隠しているのではないかとか、記憶が消えているのは不自然だとか、話を無理に逸らせているなとか、そういう疑念を持つことはなかっただろう。へえ、丸山真男は広島にいたのか、それは知らなかった、すごい偶然だ、驚きだなという、ただその衝撃だけだっただろう。負傷した女性を「お岩さんのようだ」と言ったり、火傷した人々の呻きを「セミの声」に喩えたりする丸山真男の表現は、被爆者を傷つける無神経のようであり、何か投げやりな、被爆者と自分との間に距離を置こうとする動機の為せる業のように感じられる。
それはきっと、当時の被爆者を見る世間の冷たい視線に敢えて合わせたのであり、故意にそうした棘のある表現を放つことで、被爆者としての自己認識をよく整理して言語化できないところの、そ営為の困難さの前に立ち竦んで戸惑う、そして不条理きわまる運命を強いられた自身の葛藤や鬱懐を表出したのだろう。政治思想史学という、意味を明らかにする学問の専門家でありながら、自己の体験をよく意味づけすることのできないくやしさともどかしさに煩悩する丸山真男が見える。このとき、丸山真男は築地の国立がんセンターに肝炎で入院して病床で質問に答えた。2時間のインタビューはドクターストップで切り上げられた。
by yoniumuhibi
| 2017-08-17 23:30
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