インドで考えたこと - インドの宗教と自律と自癒の社会

c0315619_17220519.jpg堀田善衛は岩波新書(青)の中でこう書いている。「デリー近郊を歩いていると、いや、どこをでも、インドの友人のすすめるがままに見物に行くとするなら、一切は宗教である、ということになってしまう。(略)デリー近辺の広大無辺の半砂漠地帯には、その昔の帝王の実に巨大な墓や回教礼拝堂の廃墟がいくらでもあるが、それらはたとえ廃墟であっても、決して死んではいないという、生き生きとした印象を与える。(略)村の人たちは、観光用説明というのではなくて、それらの廃墟についていくらでも無限に、そして実に楽しげに、現在に生きている対象として話をすることができる」(P.67-68)。デリー市内には、宗教の寺院や施設がとても多かった。想像以上だった。宗教が人々の生活の中に入り込んでいて、人々が宗教とともに生きている。インドを治めているのはインド政府に違いないが、路上に群れて暮らしている夥しい数の末端の人々まで含めて、それを統治しているのは、宗教の自律と自癒の力(Macht)なのではないかと、そのように思われた。宗教の死生観などとは無縁に生きていて、信仰心などというものを軽侮する態度を持ちがちな日本人には、インドの人々と社会は分かりにくい。が、どうやら、インドの人々がシヴァ神やヴィシュヌ神を語ることは、われわれがトランプを語ることと同じくらい関心の高い、意味のある問題事項なのだ。



c0315619_17215053.jpg私は偶々、大学で東洋政治思想史という風変わりな学問を専攻し、演習ではウェーバーの『宗教社会学』を読む機会を得た。そういう経歴を持つ者として、インドはやはり一度は訪れなくてはいけない土地であり、実際、まさにそこにはウェーバーが考察する対象が生々しく豊穣に存在していたと証言できる。デリー観光で移動する間、街のあちこちにヒンズー教、シーク教、ジャイナ教の寺院や施設があり、しかも、そこに人々が集まっていた。シーク教の寺院だとガイドが案内した建物は、夜の9時頃だったが皓々と灯りをつけて「営業」していて、信者の男たちが参じて中で何事かをしている。お祈りなのか、祭事なのか、想像もできない。日本で言えば、まるで奇妙な新興宗教の絵だ。そういう寺院が、薄汚い小売店と露天商が密集する半スラム街のような場所に幾つも点在している。あるシーク教の大きな寺院では、ビルの建物の一階が複数の商店になっていた。何だかわけの分からない宗教の寺院が、規模も大小様々に庶民の居住空間にあり、古い時代に創建されて現役で活躍しているものもあれば、20世紀に建てられた新しいものもある。街の人々にとっては、それは観光の文化施設ではなく、文科省や教育委員会が管理するものでもなく、普通にお店に買い物に行くように日常立ち寄るものだ。

c0315619_17222669.jpgガイド氏の説明によれば、インド全体の宗教の比率は、ヒンズー教が79.8%、イスラム教が14.2%、キリスト教が2.3%、シーク教が1.9%、仏教が0.7%、ジャイナ教が0.4%、という具合になっている。拝火教(ゾロアスター教)も0.02%いる。今のモディの前のシンがシーク教徒で、シンボルであるターバンを頭に巻いていた。インド全体の2%にすぎないシーク教徒だが、デリーではターバン姿の男はもっと多くいるように見えた。タタグループの会長一族は拝火教徒である。シーク教だの、ジャイナ教だの、何のことだろうかと思うが、説明を始めると密林に迷い込んで途方が暮れるのでやめよう。どうもインド人にとっては、個々の宗教の違いというのは、われわれが考えるほど厳密ではなく、壁が高いものではないようなのだ。原理主義的に先鋭化すれば壁は高くなり、差異と対立を意識するけれど、宗教という大雑把な括りに入れてしまえば神経質にならなくてよく、それぞれの人の顔や性格の違いというほどの差異になってしまう。ヒンズー教についてのネットの解説を見ていると、インド人にとってのヒンズー教というものは、宗教の一つというより宗教全体を指すもので、サブセットとして仏教やジャイナ教など他の宗教も緩く包含される感覚だと書いていて、その指摘と整理が当を得ていると思われる。

c0315619_17224483.jpgインド人は、自分たちは7000年の宗教の歴史を持っていると言い、すべての世界宗教はインドから始まったという自負と確信を持っている。インドから西に展開したイスラム教も、インドから東に伝播した仏教も、インドに始まったバラモン・ヒンズーの思惟様式と生活態度を起点とし水脈とするもので、どれもインド人の教え子であり、インドの宗教の弟子たちだという考え方なのだ。インドが人類の宗教の始祖であり、そのインド人が現在まで嫡流として受け継いでいるのがヒンズー教で、他の人たちは派生品である仏教やイスラム教やキリスト教を信仰してるんだね、それはそれでいいよ、インドにも他にシーク教とかジャイナ教とか個性的なものがあるよ、全部似たようなものだね、神様を信じて自己を戒め浄めて謙虚に生きていくことが大切なんだねと、そういう認識と感覚らしい。信仰や戒律は様々で教理や儀式もいろいろある、だけれども宗教は宗教であり、元をたどれば7000年前のインド人の原型に行き着くのだと、そういう宗教観とアイデンティティで生きているように見えた。だから、無理にヒンズー教を布教しようとしない。自己紹介という程度の説明はするけれど、体系や教義について情熱的に説得や啓蒙はしないし、ウェーバーがプロテスタンティズムについて試みたような理論的な正当化や普遍化を学問でするということはしない。

c0315619_17231057.jpgヒンズー教について、何か書かれたものを読み、シヴァ神がヴィシュヌ神がという世界に入り込むと、それはもう終わったものに映り、われわれとは無関係な非合理で不必要で理解困難な異質なものに感じられる。しかし、ヒンズー教はヨガと瞑想として現代人の中に生きていて、ストレスを除去して精神を解放し、心身をバランスよく落ち着いた状態にする知恵として機能している。ヒンズー教というと何のことだろうと疎遠に思うが、ヨガと瞑想というと女性たちは価値ある表象として積極的な関心を向ける。インド人にとって、それは太古の先人から伝わった慣習と健康法であり、中国の風水や気功や太極拳と同じものだ。風水や気功が道教の世界観から方法化され技術化されているように、ヨガと瞑想にも深奥な理屈があり、宇宙と人間の本質を説く哲学があり、サンスクリットのヒンズー教の教説がそうだ。ところで、こうしてインドの宗教について感じたままを書いていくと、インドの人たちは心穏やかに静謐に、内省と清貧の中で社会生活している印象を受ける。だが、デリーの街の実態は、それとは全く違って、渋滞の中でクラクションが鳴り響くエゴ剥き出しの騒音地獄だった。車線に割り込もうと無理な突進をする車やバイクで溢れ、異世界から来た旅人の神経をひたすら傷つける無秩序で暴力的なサバイバル空間だった。渋滞とクラクションの狂騒は中国よりもひどい。

c0315619_17232970.jpg片側3車線の道路の場合、車は4列で当たり前に並ぶ状態になり、4列の車の隙間にバイクが入りこみ、そのバイクの隣に別のバイクが無理やり体を入れてくる。ねじこんで来るとき、これから行くぞと威嚇するように後ろから攻撃のクラクションを鳴らす。前にいる車は、割り込ませまいと、牽制をかけるように何度も激しく防衛のクラクションを鳴らす。割り込む側、割り込ませまいとする側、双方がクラクションの音響で怒鳴り合う。走行中も、渋滞のときも、同じように誰もが頻繁にそれを鳴らす。道路上はその怒鳴り合いばかりが乱暴に続き、マイクロバスに閉じ込められた旅人はストレスで神経衰弱になる。インド人はタフでへこたれない。クラクションとハンドルの戦争を熾烈に闘い抜き、戦場たる車道を匍匐前進し、急アクセルと急ブレーキを駆使した突撃を繰り返す。渋滞で詰まっているのに、今度は横から、左右から90度の角度で突っ込んでくる車の列がある。当たり前のように交差点でそれをする。平然と、数センチの隙間を捉え、コンマ数秒の駆け引きを出し抜いて車体を割り込ませる。交差点の通行がまともに機能しておらず、信号があるのかないのか分からない。前後左右に車とバイクが犇めき合って喧騒する、隙間のない道路上を、人と自転車が斜めに横断する。よく事故が起きないものだと思うが、インド人は寸止めの呼吸で、数センチの幅を保持して奇跡的に交通事故をしない。

首都高のような片側3車線の高速道路で、車は時速100キロで途切れなくびゅんびゅん通行しているのに、中央分離帯にポツンと立っていた男が、いきなり車道に飛び出して横断してしまった。自殺未遂ではない。通常の道路の横断だ。そんな絶句する危険な場面に何度も出くわした。人身事故は起きない。これも宗教の為せる業であり、自律社会の法則と力なのだろうかと、疲労困憊しつつ、感心して車窓からインド社会を眺めるばかりだった。



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by yoniumuhibi | 2017-02-15 23:30 | Comments(3)
Commented at 2017-02-15 22:05 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 愛知 at 2017-02-15 22:44 x
タイ北部の田舎、パヤオ県で暮らしていた頃。自ら日産・サニーをドライブ、お上りさんの如く天使の都、クルン・テーㇷ゚に出かけていたことを思い出しました(今は無理、チェンライから空路です)。貴下活写された寸止めの混沌に驚き、当初、モータリゼーションが早急過ぎたと立腹していたのですが、慣れてくると本当に純粋に急いでいるだけ。日本人のような底意地の悪さがないことに気付かされました。どこかで譲る不思議さが。それを呑み込むと運転もスムーズに。当時、酒など嗜好品の買い物は物価の安い軍政ミャンマーへ。長井健司さんが射殺される前のことです。豊穣の旅行記に重ねて感謝いたします。
Commented by キヌケン at 2017-02-16 04:58 x
インド感想記、こちらも拝読させていただきました。
インド、圧倒されますよね・・・。
インド、大好きです。
あのクラクションの音は私にはどこか音楽のように心地よいものでした。
長いこと居ましたが、交通事故はあまり見当たらなかったです。
あのクラクションはインド人の優しさなのかな、と思います。
最近どんどん開通するデリーの地下鉄。ラジブチョーク駅など、市街地中心地になると電車が来ても何列にも人が並んでいて、数本待たないと乗車できないような混雑ぶり。
しかし少し郊外に行くと少し空いてきていながらも、例えば7人座りの長椅子に9人、所せましと座っている!笑
そのくせ、全くどこから来たか分からない外国人である私を指さして、「こっちへ来い!隣空いてるぞ!!」とさらに席を詰めて座らせてくれようとする・・・。
全然空いてないじゃん★と思うものの見事お尻フリフリでわずかな空間を確保してくれて、何とか私も腰を下ろす。(詰められたその他大勢もあまり嫌な顔をしていない・・。)
そうしたことが何回かありました。
クラクションも事故を起こさないためにガンガン鳴らしているんじゃないかな?と私の推察です。
それにきっとインド人は自分たちのことを世界一優しい民族だと思っている節があります。
日本人も優しいけど、慇懃無礼な面もある。
インド人にはそれがありません。
みな、子供のようなメンタリティー。良い意味で・・。
インド門の人口池に集う家族やカップルは、日本では幼稚園児くらいしか喜ばない足漕ぎボートに乗ってはしゃいでいる。。
いい大人がホントに楽しそうだ。
結局、インド人って本当のところは分かりませんが、どうやら個人個人がわりと自信を持っていて、他人と比較しない民族なのではないでしょうか?
日本人はKYだとか、目立つことするなとか、いろいろうるさく言われますが、インドは真夜中でも十分KY☆笑
自分のしたいこと、言いたいことは主張するけど、他人を認めないわけではありません。
インドに惹かれる人ってそこなんだと思います。
窒息しそうな日本を飛び出て自由な空気を吸いたい。(でも大気は世界ワーストレヴェルで低いですけどね。)
個で生きてらっしゃる世に倦む日々さんも、どこかでインドの個人主義に惹かれるところがあるのでは?と思ってます。
駄文、失礼しました。


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