やまゆり園の大量虐殺と倫理 - 悪への怒りと拒絶が弱いのは何故なのか

c0315619_13375071.jpg2016年は大きな事件が多かったが、特に衝撃が大きかった事件として相模原障害者施設で起きた大量殺人がある。19人が死亡、26人が重軽傷を負った。戦後に起きた事件として最も犠牲者が多く、この事件について触れないわけにはいかない。最初に思うことは、被害の大きさや深刻さに対してマスコミの扱いが小さく、世間の関心がとても小さく、釣り合いがとれていないことだ。事件が起きたのは7月26日。リオ五輪が始まる10日前で、テレビ報道の関係者の関心はリオ五輪を盛り上げる演出ばかりだった。安室奈美恵の「君だっけのぉー、ためーのヒィロォー」のフレーズがNHKで繰り返し鳴り響き、威勢のいいリフレインによって気分はお祭りの方に持って行かれ、事件について丁寧な思考を向けることをしなかった。安倍晋三はカメラの前でコメントを発することをせず、現場となった障害者施設を訪問することなく、献花台の前で手を合わせることをしなかった。臨時国会が9月末に開会されたが、国会の委員会質疑でこの問題が取り上げられ、政府との間で論戦になったという報道を聞かない。「安倍総理は、やまゆり園に行って献花をするつもりはないのですか」と、素朴な疑問を発して答弁を聞き出してくれる議員は一人もいなかった。



c0315619_13383570.jpgネットに公開されている厚労委員会の議事録を検索したところ、衆院では10月19日に第1回が開かれ、塩崎恭久が所信表明を述べているが、長い演説の原稿の中で、この事件に触れた部分はわずか46文字で、「相模原市の障害者支援施設で起こった殺傷事件に関しては、実効ある再発防止策を早急に検討します。」と言っているだけだ。その後の委員会の議事録を調べても、野党がフォーカスしているのは年金カット法案だけで、この事件については全く審議の対象にしていない。唯一、11月8日の参院厚労委の第3回目で、誰かは不明だが、「相模原市の障害者支援施設における殺傷事件についての厚労省の中間とりまとめが措置入院制度のみを取り上げていることへの懸念」を提起した議員がいるのを見つけた。本来なら、厚労委の第1回が開会した冒頭で、委員長が促して全員が起立し、犠牲者に黙祷を捧げるのが当然ではないのか。あるいは、委員会の全員で相模原の献花台の前に行きましょうと、そう呼びかけてマスコミに同行取材させる議員がいるのが普通なのではないか。国民の代表である議員たちの、あまりの無神経さというか、感性の鈍さに言葉もない。

c0315619_13393719.jpg厚労省は事件後に、「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」なるものを立ち上げ、何ともアリバイ的な作業と報告をさせたが、事件についての問題意識と責任意識を、再発防止の方向へとすぐに誘導し、措置入院のあり方の見直しという対策に集中させ、問題を矮小化して責任をスリカエた。どうしてこんな事件が起こったのか、何が問題なのか、動機は何だったのか、本質的な分析や解明に踏み込むことはせず、検証という言葉に足りる検証は周到に避け、再発防止の小手先の行政策の方に問題を関心づけた。防犯チェックリストだの措置入院制度の見直しだのの、お茶濁しを中間報告にして済ませた。マスコミも、その政府の対応に不満や批判を言わなかった。事件が起きた直後から、政府はこの事件の矮小化と些末化に努め、国民的な重大事件とせず、動機から思想的背景の究明と検討をする方向へと国民の関心が向かうのを阻止するべく動いた。事件翌日の7月27日に、菅義偉が会見で「関係省庁と協力して再発防止策の検討を早急に行いたい」と述べた発言が、政府の対応方針をよく示している。この時点で、戦後最悪の事件を前に社会の病理を直視して真剣に掘り下げるのではなく、再発防止策に問題を収斂させることが決まっていた。

c0315619_13402256.jpgその後のマスコミ報道では、障害者の人権が強調され、障害者と共生する社会作りという方向に世論が向けられる言説と論調で埋められていく。私はこのエバンジェリズムのシフトに違和感を覚えざるを得ない。話がどこかで屈折され、問題をスリカエられている気がしてならないからだ。テレビ報道を見ている私を含めて、国民一人一人において、障害者を大事にし障害者と共生する意識が薄いから、障害者の人格的尊厳への配慮が欠けているから、こんな事件が起きたのだと、そのように上から説教されているように思えてしかたがない。障害者と寄り添って生きる態度が弱く、それは障害者とその家族の生活を知らなすぎるからで、もっとよく実情を知らなくてはならないのだと、マスコミが共生主義の理念を訓導しているように映る。国民が障害者に内在する態度をさらに積極的に身につけるように、政府の水面下の指導でマスコミが啓蒙活動しているように見える。そうした試みに異を唱えるつもりはないし、意義を否定するつもりはないが、どこか根本的に問題の認識がズレているという疑念を抱かざるを得ない。表面を撫でているだけの行政の事務的ルーティンワークに感じるのだ。こうした政府マスコミの啓蒙活動や意識づけが、本当に効を奏するのだろうか。同類の事件の再発を防ぐ処方になるのだろうか。

c0315619_13410788.jpg私が足りないと思うのは、犯人に対する社会の怒りと憎しみである。犯人を許せないとする渾身の憤りがなく、犯人を否定する煮えたぎる激情がない。昔の日本にはその分量と熱量があった。今の日本にはそれがなく、犯人への憎悪と糾弾が燃え上がらず、徹底した制裁と厳罰を与えよという声が起きない。昔なら、すぐに死刑にせよと誰もが躊躇なくラディカルに言っただろうが、今はそれが言えないし、誰も言わない。そんなことをうっかり口に出せば、おまえは死刑賛成論者かと叩かれ、左翼から猛然と吊し上げられて唾を吐かれ、蛇蝎のごとく嫌われてしまう。人権意識の希薄な非常識者だと責められる。ポリティカル・コレクトネスの観念からの躊躇と用心が先行して、こうした凶悪犯への憤激にブレーキがかけられる仕組みになっている。逆に、残虐な加害者の方に内在と理解を向けなくてはいけない思想環境になり、それが一般的なプロトコルになり、犯人にストレートな怒りと憎しみをぶつけることがなくなった。テレビは、車の中で笑って得意げにポーズをとっている植松聖を素通りで流し、そのありさまを掣肘しない。言葉を荒げたり、痛烈に罵倒することをしない。若い世代は、学校で脱構築主義(ソフィスト的相対主義)の教育を施されているため、30年前は当たり前だった社会常識やマスコミの言説は通用しないのだ。

c0315619_13415212.jpg鬱々としてテレビを見ていたら、一度だけ、大阪だったと思うが、ある障害者が登場して、犯人にそんな理解的な姿勢を示してはいけないと、事件について対話している者の議論に抵抗した場面があった。それだけが、私が納得を感じた瞬間である。ネットの情報を見ていると、7月27日の中国新聞の社説で、犯行を強く非難した上で、本人の生い立ちや人間関係はもとより事件に潜む社会的な病巣はないのかと問題提起があったとある。昔は、ワイドショーもニュース番組も、凶悪犯の生まれ育った家庭環境という問題を看過することはなかったし、どういう人格形成や社会背景なのかという視点を疎かにすることはなかった。今では、親は子どもとは違う人格だという分別になり、責任を追及されることなく、厳しい指弾を受けることなく放免される。「個人情報」のプロトコルが防護壁になり、あっさりと制裁を免責されて済まされる。植松聖の場合、親も重要な要素だし、どうやら政治への通路を示唆したと思われる、あの近所の理髪店の店主も重大な関与者に違いないのだが、そういう人間関係を客観的に社会科学する視線がどこにもない。わが国の脱構築主義の社会学は、重大な社会事件から科学的な観察と分析を排除し、犯行に関わった者や影響を与えた者の免罪に貢献する理屈の体系となって機能している。真相は常に闇の中となった。

c0315619_13423754.jpg北方領土の日ロ首脳会談の後、誰だったか、安倍晋三がどれほど国益を損ねても誰も怒らない、国民の怒りが小さすぎる、どうしてもっと怒らないのだろうと呟いていた。年金カット法案もカジノ法案も強行採決されたのに、あまりにも国民の怒りが小さいと嘆いていた。その嘆きには同感する。同じことなのではないかと私は思う。こうした怒りや憤りの感情は、悪や非道を拒絶する倫理があって始めて発生するものだ。強い倫理感や正義感の緊張があるとき、それを犯され破られたことを許せず、心の奥底から反発が上がって自然に激高する。倫理が感情となる。倫理が内面に占める比重が低く、価値観が相対主義になっているから、怒りや憤りの爆発が導かれない。それもある、あれもある、犯人にも理がある、一人だけ責めてはいけない、親は独立した人格で人権がある、という言説と規定が支配的になっていて、そのコードとプロトコルが内面に抑制をかけるから、ソクラテス的な善の倫理規範が消失するのだ。脱構築主義を担いできた左翼は、脱構築の相対主義の教理によって、悪政や独裁への批判や憤激がなくなっている自縄自縛の真相を知るべきだろう。嘗ての日本社会であれば、植松聖に対する憎しみも、安倍晋三に対する憎しみや恨みも、同根のところから勢いよく発せられたのであり、絶対に許せないという感覚と意思が社会を覆ったに違いないのだ。

c0315619_13431978.jpg脱構築主義の流行と蔓延が日本人の倫理を解体し、日本人は悪を憎むことができなくなった。悪を憎む心理のメカニズムを失った。この事件では、19人が犠牲になり、26人が重軽傷を負っている。犯人は全員を殺そうとした。寝たりきりで動けない、あるいは恐怖で凍りついたままベッドで横たわっている障害者の首筋に刃物を当て、モンゴル人が羊の首を切り裂いて屠殺するように、一人一人をテクニカルに殺処分して行った。26人の重軽傷という結果は、犯人にとっては不本意のミスであり、一人一人の殺処分に費やす時間と工数が決まっていたから、残念ながら殺人に至らなかっただけである。あるいは、搬送先の救急病院で蘇生治療に当たった医師の技能の賜物に他ならない。犯人は、殺すとき、捕縛した施設の従業員を脅し、その部屋に入所している一人一人の障害度の重さを確認し、重度の者から順番に襲って行ったと報道されていた。刃物で脅されているから仕方なかったのかもしれないが、従業員は、犯人の命じるままに情報を与え、処刑の順番の選択に手を貸してやっていた。幇助をしていた。私は、やまゆり園の園長が、あのように被害者の顔をしてカメラの前に出るのにも違和感を覚える。そんなことは絶対に教えない、障害者を殺戮する手伝いはしない、殺すなら先に自分を殺せと、犯人に向かってそう言い放って立ち向かう勇気はなかったのだろうか。職業倫理はなかったのだろうか。


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by yoniumuhibi | 2016-12-27 23:30 | Comments(2)
Commented by クロスケ at 2016-12-28 00:34 x
日本は今役に立つか役に立たないか、損か得か、金があるか無いかなど、目先だけの合理主義に囚われて他の事が見えなくなっている。更に貧困がそれに拍車を掛けている。
これは危険な兆候だ。加えて中韓への攻撃的な感情やバッシング報道、マスコミ報道を鵜呑みにする日本人、それがやがて戦争行為へと繋がる架け橋となる。
Commented by かざぐるま at 2016-12-28 06:35 x
障害者に本当に向き合っている家族も施設のお偉いさんもおらず、むしろその死を利用しているように思えます。
県費で建て替え費用を出す、遺族が真っ正面から発言し、論陣をはることもなく。
正直、現場の人間に押し付けてきたからこそ、あのようなことが起きても自分に疚しい気持ちがあるからに過ぎない。
介護や障害者施設の現場は世話をされる側の人権がなどと言えるほど生易しものではありません。未來ある若者が痛めつけられる現場です。
上のものがのうのうとしている社会、絶望に声も手も出せないように躾、育てられた若者たちも含めて、我ら以上の中高年が都合良く、自分等だけ逃げ切る仕組みの産物なのです。


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