映画『君の名は。』の魅力 - 村上春樹を思わせる物語、今の若者の心を代弁

c0315619_16573532.jpg映画『君の名は。』を見てきた。きっかけは、9月20日の報ステの中で小川彩佳が絶賛するのに接したからで、これは見た方がいいかなと感じたからだった。通常、現在上映中の映画を、あれほどテレビの報道番組が激賞することはない。予期せぬ社会現象となり、若者の間で空前のブームが起きているため、報ステが特集して紹介したのに違いなかった。そこから4日後の9月23日、興行収入が封切4週目で100億円を突破したという快挙達成の報道があり、その夜、日テレのZEROでも特集が組まれ、映画に登場する各地がファンの間で「聖地」になっている状況が伝えられた。おそらく、NHKやTBSも続くことになるだろう。興行収入のグラフの伸びだけを見れば、勢いは『アナと雪の女王』を凌駕していて、驚異的な観客動員を短期で実現している。この映画のヒットが異色で画期的なのは、テレビなどマスコミでの宣伝をしておらず、上からのプロモーションがないのに若者の観客を爆発的な勢いで集めたことだ。若者層の共鳴はSNSで口コミで広がったと言われている。リピーターが多い。この事業の成功には脱帽させられる。作品が本物だからであり、若者の心をグリップしたということだ。



c0315619_16575181.jpg果たして、映画館に足を運んだところ、期待に違わぬ出来であり、率直に大いに満足する内容だったことを報告したい。小川彩佳が見終わって涙がボロボロ出たと熱く語っていたが、その感想が決して誇張ではないことがよく頷ける。そして、この映画は、私のような中高年でも堪能できる面白い物語だった。われわれ日本人は、宮崎駿の次に来る才能と傑作を待っている。それは誰だろう、どんな作品だろうと、その天才の出現を待望している。宮崎駿の歴代の作品と比較して『君の名は。』が同格に並ぶとは思わないが、少なくとも興行収入と観客動員の上で肩を並べている事実は間違いない。この作品には、宮崎駿の作品で描かれているような、壮大なファンタジーと男女のラブストーリーの要素がある。その意味で、この映画はジブリ的で、日本のアニメらしい正統のスタイルの作りになっている。われわれはファンタジーを求めていて、ファンタジーの想像力をアニメ映画で見せてくれることを求めている。彗星の落下というスペクタクルを構想して描き込み、それを基軸に据えて奇跡の物語の展開を作ったことは、われわれが求めているファンタジーのニーズに見事に応えたものだ。その点で大いに評価できるし、新海誠の次の作品に期待できる。人生の楽しみが一つ増えて嬉しい。

c0315619_16580608.jpg『君の名は。』の魅力は、村上春樹のタッチを強く感じることだ。例えば、瀧が三葉に会うためスケッチを頼りに旅に出る場面などは、『羊をめぐる冒険』の記憶が浮かび上がってくる。二つの世界に離れて生きている
瀧と三葉の二つの人格が、観想と追懐の中で交錯して、運命の糸に導かれながら接近し、奇跡の遭遇を遂げるという話は、7年前に読んだ『1Q84』の天吾と青豆を想起させられる。映画の途中から、これは村上春樹の世界じゃないかと膝を打ち始め、カルデラの外輪山での「かたわれどき」のクライマックスと奇跡の成就を教えるハッピーエンドのラストを見届けて、その感を強くした。その後にWikiを確認すると、やはり、「村上春樹に強い影響を受けていると公言している」という記述がある。村上春樹の小説が売れた頃、パラレルワールドとかトランスパーソナルとか言われていて、何のことだか分からないけれど、『君の名は。』も、評論でそんな言葉が似合いそうな雰囲気がする。瀧がスケッチを手に飛騨へ旅立つとき、友人の司と先輩のミキの2人が一緒について行く。ここは新海誠のオリジナルだ。村上春樹ではこの設定は絶対にあり得ず、旅は必ず孤独な覚悟の冒険となり、そして旅先で遭遇した誰かと不思議な経験をして、物語が意味深く膨らみつつ、後の種明かしとカタルシスの伏線になるという進行になる。

c0315619_16582377.jpg幾つかのことを考えさせられた。この物語に中高年の私が感動するということの意味についてである。それは、年と共にどんどん縁遠い存在となり、心細い気分で眺めていた若者世代という対象に対して、何か繋がりを感じられ、積極的な認識と理解を得たということがある。うまく整理できないが、感じたところを書いてみよう。第一は、時代の世相と日本の思想である中今主義の問題だ。作品のメッセージとして、今日一日を大事に生きないといけない、明日は何が起きるか分からない、隕石が落ちるかもしれないし、大地震と大津波で破滅するかもしれない、だから、この一瞬を大事な人と大事に生きようというものがある。この考え方は、特に若い人の間で強く支持されているに違いない。われわれの世代は、かかる本居宣長的な中今主義からはもう少し自由だった。現在は未来のためにあり、人格と能力は無限に完成をめざすものであり、明日のために今日があり、反省と訓練の継続によって将来の成功と幸福に至るのだと、そういう人生観が強かった。個々が人生の時間軸を持っていた。今の若者は、そういう楽観的で平和的な時間軸の人生観を持ちにくい。個体的な物質的基礎(マルクス的な)を持ちにくいからであり、計画的なライフステージの自己像と社会像を前提しにくいのだ。今の刹那を生きるしかない。非正規の職場をクビにならないよう懸命に働くしかない。

c0315619_16584598.jpg若者の5割が非正規で、楽観的な将来が前提されていない。今を大事に生きよという中今主義の日本の思想は、経済的な将来のない者には、積極的な真理あるいは託宣として受容され、生きる支えとなり、日常の心構えとして機能する。自己合理化の思想となる。実際のところ、経済的な問題だけでなく、震災や豪雨の被害はいつ我が身に降りかかるかもしれず、そうなったときは人生の破滅に直面させられる。東日本大震災から5年して、熊本で千年に一度の地震が起きた。今の日本は、地雷原を歩くような破滅のリスクに満ちた社会であり、さらに自己責任の社会である。各自に経済的余裕がなく、周囲の弱者に手を差し伸べることができない。助けてもらえる家族や友人を持っていない。若者世代は中今主義の思想に浸らざるを得ない。こうした精神状況になると、時給1500円を実現するための運動や闘争という方向には意識が向かいにくくなる。こじんまりと今日を生き抜くことだけに努力し、他者に嫌われたり疎んじられることを恐れる。大きな観点から社会矛盾に覚醒して抵抗に立ち上がるという動機づけにならない。現世を合理的に改造するというウェーバー的な主体性が形成されない。自己肯定と体制肯定になり、宣長的な非政治主義に萎縮し、自己や社会を改造して再生するい意志が発生しない。

c0315619_16591414.jpg考えさせられた第二は、「記憶がすぐに消える」という問題だ。そして、スマホやネットを通しての人間の記憶の継承と関係の保全という問題だ。嘗てプラトンは、紙にペンで書き記したものを「インクのしみ」と呼んで軽蔑した。大事なことは脳に格納しなくてはならず、その能力こそが人間の偉大さの証明であり、思考と論理はオーラルで表現されなくてはならなかった。哲学は読み書きするものではなかった。思考を出し入れする記憶装置は脳だった。それが紙媒体の外部記憶装置となり、電子媒体となり、現在の、電子媒体の奴隷と化した人間の生き方に変わっている。脳を記憶装置として使わない習慣が定着し、人は覚えることが苦手になった。本を読んでも、目にしたページを脳に焼き付けようとしない。後で読み直せばいいとか、ネット検索で探せば要点を探り当てられるだろうとか、そう安易に思ってしまい、精神を集中させず読み流してしまっている。昔、古典を大学で学んだとき、ノートの取り方という問題を教わったが、今、そのようにして本を読んでいる者が何人いるだろう。『君の名は。』では、スマホに入っていた日記(記憶)が一瞬でサラサラと消える場面があり、切なく愛している相手を前にして、君の名が思い出せないと言い始める場面がある。物語の謎解きの重要場面だが、これにはハッとさせられた。リアルの関係性に緊張感がなく、(言わば無責任な)外部記憶だけが関係性の唯一の根拠となっている。

c0315619_16595978.jpg今が大事、大事な人と一瞬の今を大切にと言いつつ、われわれは、今の大事な時間や関係をかなりルーズに扱い、テレビなどメディアの消費に意識を回収され、後からスマホを見ればいいやとか、ネットで検索すればいいやと杜撰に流しているように思われる。こうした「記憶がすぐに消える」関係性の傾向は、中高年世代より若者世代において甚だしいのかもしれない。第三に思ったことは、若い人たちが、愛する異性を切望していることである。運命の出会いを求めていることを痛感させられた。『君の名は。』は、今の日本の若者の心をありのまま代弁している。現在、独身男性の7割、独身女性の6割が交際相手がおらず、性交渉の経験もない若者が増えているという現実がある。孤独な中にあり、家族や友人との関係が希薄な中で、奇跡の物語で繋がり結ばれる相手を求めている。今、どうしてこんなに若者に交際相手がいないのかというと、お金がないからだ。働く若者の5割が非正規で、働いていない若者も多くいる。非正規の平均年収は169万円。この収入では、とても自由な恋愛を生活の中に含み入れることはできない。交際以前に結婚ができない。結婚を前提にした交際ができない。結婚を前提にした交際ができないとなれば、その若者の交際は何を前提にした交際になるのか。結婚する自信や可能性がないから、交際というステップに積極的に入れないのだ。

日本社会は再生産ができなくなっている。大学の経済学で、「賃金が必要以下に食い込んで再生産ができない」という一般論を聞いたが、なるほどこういうことかと頷かされる。映画館の中は10代と20代の若者がほとんどだったが、皆、どことなく活力がなく存在感が薄い感じに見えた。
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by yoniumuhibi | 2016-09-28 23:30 | Comments(1)
Commented by さとうこう at 2016-10-02 17:51 x
『君の名は。』はすばらしい作品である。それは疑いがない。
そのうえで、50代である私にとって、この映画に感情移入できない点は以下の通り。
1、最後に二人がリアルに出会えてしまうこと。
2、惨事がリアルに回避できてしまうこと。
3、「かたわれどき」のあのクライマックスの場面で言葉による説明が多すぎること。

あの二人が時空を超えて何の説明もなく(入れ替わりという形で)繋がるという出来事は、『ねじまき鳥クロニクル』の「井戸の壁をすり抜ける」という暗喩によって描かれたパソコン通信時代のネットコミュニケーションに連なる表現だ。
何の理由もなく無関係だったはずの二人がいきなり繋がるという出来事にリアリティを感じることができるのはネットというものがあってこそだ。
しかし、私のようにネットのない時代を生きてきた者にとっては、ネットで出会うことと、現実に出会うこととは等価ではない。だから、どうしても映画の最後に醒めてしまう。
すれ違う電車の車窓越しに二人が相手に気づく場面でエンディングだったら、私は号泣していただろう。

惨事が回避できたところにも、リアリティを感じることができない。
「生物は死んでもまた生き返ると思っている小学生・中学生がいる」という報道に接することがあっても、これまで私はその報道を信じていなかった。調査の仕方に何か問題があるのだろうと思っていた。
しかし、いろいろな事柄が「取り返しがつく」という感覚が、どうやらネット時代の若者には少なからずあるのだろうなと感じた。

映画という表現において、あれほどの緻密な映像を作る新海誠作品において、台詞によって説明しすぎることにも、違和感がある。映像で表現してなんぼだろうと思ってしまう。
が、ネットにおけるコミュニケーションの主流は、今のところ言葉だ。しかも、レトリカルではない直接的な言葉である。

江戸時代に生まれた夏目漱石が自由を相対化できたように、村上春樹はネットコミュニケーションが相対化できている。ネットがはじめから当たり前の世代の作品を見たことで、そのことがよくわかった。


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