村上春樹に感謝をこめて - 書生たる個人として生き、自由に言論すること

c0315619_18331579.jpgこのところ、しばき隊の問題ばかりを取り上げていて、もう食傷だから中止にしてくれと思われている読者も多いだろう。私自身は、この問題は今の日本の政治において重要で、考察と検討が必要な問題でありながら、誰も議論をしていないことを不満に感じている。辺見庸がしきりに問題提起しているところの、ファシズムを反対側から支えるファシズムの問題とも関連する、すぐれて意味のある政治学の問題だ。だが、この問題を正面から批判して論陣を張ることは、勇気の要ることで、これまでなかなか本格的に着手することができなかった。SEALDsやカウンターの運動というのは、右傾化の極に達したこの国で、安倍政権に対抗する唯一の救世主のようにマスコミから評価されている政治表象である。そのため、これにネガティブな視角で対峙することは、世間一般、すなわちリベラルの常識世界から孤立するリスクを拾うことに繋がってしまう。辺見庸が9月27日の日記でSEALDs批判を書いたときも、左翼リベラル方面から猛烈なバッシングの嵐が吹き荒れ、彼の発言を擁護する者は、おそらく私を除いて一人もいなかった。左翼リベラルの界隈では神様のごとく崇められ、辺見庸が論稿を載せれば週刊金曜日の部数が売れるというその人気者が、9月28日から数日間は、「2分間憎悪」の磔刑に処せられて石を投げられていた。



c0315619_1833287.jpg私に勇気を与えてくれたのは、村上春樹の『職業としての小説家』である。この作品の恩恵がなかったら、私は、しばき隊(野間易通木下ちがや神原元五野井郁夫)を直截に批判するという挙に出ることはなかっただろう。村上春樹の本を読んで感得したのは、要するにシンプルな啓示と結論だった。残りの人生は20年しかない。たった一度だけの自分の人生だ。自由に言論すればいい。物おじしたり、気後れしたり、機会を待って我慢していたら、20年なんてあっと言う間に過ぎてしまう。人生が終わってしまう。悪が栄え、人を踏みつけにして悪知恵と暴力でのし上がった連中が、高笑いして「世の中こんなもんさ」と威張るのを見ながら、己の無力に煩悶し、諦観と鬱屈を深める虚脱老人になるだけだ。自由に言論すればいい。自由な言論の環境を取り戻せばいい。今、自由な言論の環境を得るために、自らの持てる力を投擲すればいい。村上春樹はそう教えてくれた。自分ならそうすると、私の耳元で囁いた。閃きが勇気に繋がった。何も怖れることはない。20年で死ぬと、そう言うのだけれど、実際には、今のままの健康や経済の状態がそのまま20年続くわけではない。10年経てば、自分の身体がどうなっていることか、深く考えずに想像する老い先は、かなり主観的で、不安要素を捨象したものだ。だが、癌になる可能性がある。脳梗塞の発症もある。認知症の心配もある。

c0315619_18333813.jpg経済の境遇も同じだ。人は、自分の10年後や20年後を、基本的に楽観的な前提で見積もってしまう。特に私のような、生まれたときから苦労や飢えを知らず、少年時代は高度成長で日常の景色が変わる日々を送り、社会人になったらバブルを経験した世代というのは、右肩上がりの神話が潰えた後でも、せめて水平線のままで現状が続くだろうと、そんな安易な将来予測で人生の未来を想定してしまう。そういう人生観の癖を変えられない。幸せな世代なのだ。平和と繁栄の戦後日本が作ってくれた、無憂の貴族のような - したがって生きる逞しさや謙虚な自助自制の意識を欠く - 日本という共同体を信じきった日本人なのである。身体の問題については、厳密に見つめれば、5年後だって相当に深刻な状態だろう。5年前の視力、5年前の記憶力と情報整理力、5年前に文章を書けた速度、推敲できた回数、校正の精度、語彙と表現と論理の完成度を試みる柔軟な思考力、それらの、言わば脳の力のことを考えると、5年後が思いやられるというか、何やら絶望的な心境になる。村上春樹が本の中で、午前中、5時間ほどずっと小説を書いて、頭の中がパンパンになると言っていたけれど、その疲労感がよく分かる。脳が腫れる感じになる。昔は、そうはならなかった。推敲を織り重ねるのが楽しく、表現や論理の面白い工夫がどんどん湧き出て、夢中になり、自分が書いた文章を自然に暗誦するという具合だった。

c0315619_18335196.jpg人に笑われるかもしれないが、私も村上春樹と同じで、そうした作業が楽しいからこれを10年も長く続けられたのである。自分が楽しくなくなったら終わりだ。そして、そのことは、身体(フィジカル)の問題と間違いなく直結している。考えたい論題があり、閃いた仮説があり、知りたい知識があり、探して確かめたい先哲の学問と議論があり、こういう論文(あるいは記事)を構成して提起したいという、関心や意欲やアイディアはいくらでも出るのだが、それを実行して完成する脳のパフォーマンスに欠く。CPUのクロック・フリクエンシに難があり、主記憶の容量と外部記憶のシークのケイパビリティに不足がある。思うようにいかない。きっと、村上春樹もそういう身体上の能力の劣化を感じ、そのことが創作にもたらす悪影響に苦しんでいるのではあるまいか。だからこそ、一生懸命にランニングで体を鍛え、体調の維持に努めているのだろう。私も同じで、5年後、10年後の体のことを考え、1日2キロのランニングを日課とするようになった。動機と目的の第一は、血圧を下げることであり、脳梗塞を防ぐことである。脳疾患で周囲に迷惑をかけないようにしようと思ったことだった。できれば、精神的なリフレッシュとか脳の過重負担の軽減みたいな効能もあればいいと期待した。脳の方には特に好影響はないが、驚いたことに慢性化して苦しんでいた腰痛が治った。腰痛の再発が恐いから、ランニングの習慣をやめられない。

c0315619_1834320.jpg『職業としての小説家』を読んで、私は初めて、村上春樹の両親が国語の教師であることを知った。そうして、戦後日本が生んだ中産階級の子どもである村上春樹を、以前にも増してとても身近に感じるようになった。村上春樹は、世界一の文学者になり、世界中の読者を虜にし、特にインテリ層を夢中にさせ、億万長者になった今でも、80年代後半に最初に出会った頃と人間が変わっていない。昔、司馬遼太郎が言っていた書生のままだ。権力者と人脈を作らない。儲けた金で事業をするとかしない。遊んで見せびらかしをしたりしない。30年前の書生の姿、飾らない人格で読者の前に立っている。書生のままの感覚で、自分のことを素直に紹介し、自分と小説との関係を真面目に書いたのが『職業としての小説家』だ。今、司馬遼太郎が言っていた書生がいない。誰でも彼でも、業界の人脈に取り入って有名人になろうとし、マスコミと論壇に顔を売ろうとし、貪欲に出世してカネ儲けしようとする。世のため人のため、反安倍という美辞麗句を唱えつつ、人を騙し、実は自分の権勢と欲得のために巧みに世渡りしている。安保法阻止などと言いながら、実際には商売と出世のために素人の学生をテレビに売り込み、タレントにして宣伝させ、ブームを演出して業界で立ち回った男たちがいた。本を売りたい出版社や雑誌社が群れてマーケットを盛り上げた。国会前の交差点角は、カメラを持った腹黒い商売人たちが集中するビジネスの現場だった。

c0315619_18341290.jpg法案反対闘争は、SEALDsの商売と消費の場となった。その胡散臭さ、その欺瞞性は、大阪ダブル選の民意で見事に有権者に見抜かれた格好になったが、言葉で直にそれを主張したのは、私以外には辺見庸だけだ。『職業としての小説家』は、あらためて書生という生き方の清冽さを教えてくれた。手塚治虫が、あの池袋に近い小さなマンションの一室で必死に作品を描いていたように、村上春樹は一人でPCに向き合って新作に挑戦している。孤独に格闘している。そのことが大切なのだ。書生であることが大事なのだ。作品は書生の魂が生み出す。思えば、バブルのときだったか、死の直後、NHKがあの手塚治虫のドキュメンタリー番組を放送したとき、私はその生き方に憧れを覚えたものだった。個人として、書生として価値を生産する人間になりたいと希ったものだった。そして、それが可能となる物資的土台(下部構造)が、すなわち、その後にインターネット空間となる社会が技術によって生まれるだろうと予想した。昔、イリイチがジェンダー論でシャドウ・ワークという概念を提起したが、今、インターネットの中で、価値にならない価値が生産されている。インターネットの中の個人の情報活動や知識活動は、市場の商品として流通せず、GDPに寄与しないものがほとんどで、したがって、それらの活動の成果や所産や堆積は、生産ではなく空疎な趣味として経済学的にカテゴライズされている。そのことに、私は特に不当だと抗弁する気はない。

c0315619_18342284.jpgだが、この人間的活動の総体は、マルクスがどう言おうが、どう考えても市民社会での生産活動であり、手塚治虫や村上春樹の生産活動と本質的に変わるところはないのだ。人は、人がネットの中に構築した情報資源に依存して生きている。だから、それは大切なものであり、人がインターネットの中に作品を手がけ、人生を作り、生きた証を残すことはできるのだ。人に影響を与え、人に勇気と感動を与えることはできるのだ。それゆえに、それは価値のあるものであって、貨幣と交換され市場流通される商品となるか否かにかかわらず、インディビデュアル・ワークとして、個体的な創造のプロダクト・アウトとして、自己満足であれ、より価値の高いものにしないといけないのだ。であるならば、インターネット市民社会の言論の自由は何よりも尊いものであり、これを暴力で侵そうとする私的権力集団に対して、私は毅然と立ち向かわなくてはいけない。彼らの歪んだイデオロギーと身勝手な正義の押しつけを、ネット社会の言論の自由の剥奪と蹂躙を許してはならぬ。彼らが、どれほど左翼リベラルの中で勢力を誇る政治集団であったとしても、ネット社会の中の基本的人権は守られなくてはならず、日本国憲法の適用と保障は貫徹されなくてはならない。言論の自由は妨害されてはならない。最後に、蛇足ながら、『職業としての小説家』で、初めて村上春樹が自分の妻のことを書いているのを見た。私は、村上春樹にも、この妻にも好感を持つ。というのは、あの村上春樹の写真だ。

普通、妻は自分の夫の見映えを気にする。今の時代なら、メイクや写真撮影の技術で、もっとずっとルックスグッドな写真を撮って表紙にすることができただろう。しかし、二人はその選択をしていない。あの80年代後半に最初に知ったときのままの姿だ。そのことに、堕落した俗世に染まらない気風に好感を持った。生身の個人として、村上春樹は謙虚に誠実に生きている。残り20年間、見倣い続けたい。


c0315619_18343662.jpg

[PR]
by yoniumuhibi | 2015-12-14 23:30 | Comments(7)
Commented by 愛知 at 2015-12-15 00:04 x
書生たる個人として生き、自由に言論すること―――素晴らしいタイトルに深謝。馬齢ゆえ、マザーボードまで劣化。glaucomaに蝕まれ。村上春樹の対局として米作家(顔の良さで出版社から選ばれた)の名前を挙げようとするも、細君と二人がかりで検索のきっかけすら思い出せず。

子細な事柄で恐縮ですが、1960年代、工場経営隣家夫妻に連れて行かれたライオンズクラブでのクリスマスパーティー。経営者たちは、笑われながら『金色夜叉』(1897-1902)を熱演。今にして思えば、当時から戦前回帰のプロパガンダ。ずっと続けた植樹、植林。

思えばSEALs。『きけ、わだつみのこえ』をめぐる論争と重複。学徒兵の遺稿集に対して三島が「テメエはインテリだから偉い。大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ。それじゃ小学校しか出てないで兵隊にいって死んだ奴はどうなる。」無論、三島と一緒にはできませんが、辺見庸へのバッシングにも似て。

SEALsの勇気ある分析に感謝します。貴下プロダクト・アウトはたとえネットが寸断されても、私のような読者の頭から消去されることはありません。馬齢が憂うのは数か月先に予定された開戦です。今後もタフなご教授をお願いいたします。
Commented at 2015-12-15 00:21 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by Imagine at 2015-12-15 00:46 x
赤貧だと仰る前衛政党宣伝員、公明党と戦う学会員が伊勢﨑賢治を礼賛し、講演会を宣伝する異様。アベを倒せと叫びながら、政権とズブズブの戦争屋をよいしょ。理解できない知性の劣化。辺野古から中継の女性が沖縄訛りで言っておられた。「本当に戦う相手は、ここにいないんですよね。」沖縄の知性と、本土の知性劣化。これがクニの分断。
Commented at 2015-12-15 01:43 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2015-12-15 06:53 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by NY金魚 at 2015-12-15 22:00 x
村上春樹『職業としての小説家』に関して、差し出がましいのですが、世に倦むさんとまったく同じ種類のインスパイアをうけました。読者がそれぞれが持っている「やらねばならないこと」に火をつけ、燃え上がったそのことに対して「謙虚に誠実」に対応しつづけることを教えられた気がします。
◆ その本のなか、日本の英語教育の不毛を論じた部分から、日本の教育全体が、共同体に役立つ「犬的人格」をつくること、ときにはそれを超えて、団体丸ごと目的地に導かれる「羊的人格」をつくることを目的にしているように見える、と。
その傾向は教育のみならず、会社や官僚組織を中心とした日本の社会システムそのものに及んでいる、と。そして論調は一転して福島の原発事故の話に転じます。
◆(ソ連のように)ひとつの国を滅ぼすかもしれない危険性を孕んだシステムが「数値重視」「効率優先」的な正確を持つ営利企業によって運営されるとき、そして人間性に対するシンパシーを欠いた「機械暗記」「上意下達」的な官僚組織がそれを「指導」「監視」するとき、そこには身の毛もよだつようなリスクが生まれます。それは国土を汚し、自然をねじ曲げ、国民の身体を損ない、国家の信用を失墜させ、多くの人々から固有の生活環境を奪ってしまう、それがまさに実際に福島で起こっていることなのです。(p-200—204)
◆ 話がかなりはずれてしまいましたが、そのような奇形化した社会システムの反動として、イジメやレイシズム、極右傾化、そして、レフトのしばき隊の言論暴力の問題も噴出していると考えます。
Commented at 2015-12-16 10:29 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。


カウンターとメール

最新のコメント

冷静に考えて今回の証人喚..
by キヌケン at 16:43
地球の裏から日本のニ..
by 七平  at 10:03
こんにちは。今の世の中の..
by r_tta at 15:29
辺見さんの「こころの時代..
by 長坂 at 10:47
籠池泰典のロンダリングを..
by 愛知 at 03:35
頓馬な稲田朋美の百人斬り..
by 和田啓二 at 15:37
「邦人保護のため、海自艦..
by 愛知 at 02:53
現天皇は ”愛国心は..
by 七平 at 05:37
福島原発事故を当時担当し..
by 愛知 at 03:30
鹿児島の知事も方針転換し..
by 須田 at 22:20

Twitter

以前の記事

2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月

記事ランキング