ある被曝体験記 - 紹介 - 読者の方からお寄せいただいた予備役兵の手記

c0315619_12462121.jpg昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。その日は朝から快晴の暑い日であった。学校へ出勤して、自分の教室の窓を開けていたところ、まっ青な南の上空の山の上に「ピカッ」と閃光が走った。雨も降っていないのに稲妻が走るとは不思議なこともあるものだなあと話しながら、訳の分からぬまま気にも止めていなかったが、数日してそれが広島に強力な特殊爆弾(原爆とは当時解っていなかった)を投下された閃光だったと解り、こんな山奥にも届く強烈な光だったのかと驚いたものだった。8月10日、いつものとおり授業をしていると、父が顔色を変えてやって来た。私に召集令状がきたという。粗末なピンク色のザラ紙に印刷されたものを持ってきている。来る12日に庄原実業高校に講堂へ出頭せよと言うものだ。いよいよ来たかと覚悟を決め、家に帰って身支度をし、眠れぬまま翌日、家族の者や先生、子どもたちや近所の人々に見送られて入隊のため学校をたっていった。本来は、広島の第5師団に入隊するのが本筋であるが、原爆で壊滅しているため、急遽ここを集合地ときめたのだという。集まったメンバーは比婆郡西部で当時残っていた40歳以上の丙種合格者と我々18歳位の予備役の者だった。確か100人位だったと思うが比婆防衛隊という隊が編成され、汽車で広島に行き、原爆の後片付けをすることになった。



c0315619_1246669.jpg一応兵隊であるため、陸軍2等兵の襟章のついた軍服と軍帽、ゲートル、軍靴それに竹の鞘の牛蒡剣や雑嚢などの支給を受けたが、銃は不足しているので支給しないということだった。後片付けに行くのになんで銃がいるのかと思ったが、聞けば敵軍がいつ広島に上陸するか解らないので必要だという。しかし渡せないので上がってくれば牛蒡剣で戦えと言う。これは心細いことになったと内心辟易したが仕方ない。翌日国鉄の汽車で広島に向かった。途中の駅で、無蓋の貨物列車とすれ違うたびに、体中に真っ赤なアカチンを塗った兵隊や市民が満載され、うめきながら奥地(三次や庄原など)へ運ばれて行くのに出会った。その惨状を目の当たりにして、これは大変なことになっているぞと、嫌と言うほど知らされてぞくぞくっと身震いを覚えた。広島に近づくにつれ、うだるような暑さが襲って来、人の焼ける臭い(いわしの腐ったのを焼くような)と建物や草木の焼ける臭いが交じりあって風に乗って鼻を突く。喩えようのない異臭に嘔吐を催しながら、矢賀駅に着いた。駅は見る影もなく吹っ飛び、周囲はすべて焼き尽くされて一望する範囲何も見当たらない。スピードをぐっと落としながら、徐々に広島駅に入っていった。駅のホームは屋根がすっかり飛ばされており、駅舎はすべて焼け焦げ、黒々とした残骸が不気味に立っていた。

c0315619_1245502.jpg駅前に整列して、駐屯地へ出発することになったが、駅前周辺には、焼け出されて、真っ黒の顔に、ぼろぼろになった被服をまとい、虚ろな表情で座り込んだりうろついている人々や真っ裸で走り回る子どもたちがいっぱいいた。猿猴橋を渡り、稲荷橋を通って八丁堀に出たが、途中は見渡す限り焼け野原になっており、あちこちに、火傷を負って動けなくなりうずくまって、小さな声で水を欲しがっている人達がいた。八丁堀付近には、福屋中国新聞社(現在三越)などのビルが真っ黒の残骸をとどめていた。紙屋町ではまだ電柱がくすぶっており、電車の焼けた残骸が醜く転がっていた。現在のそごう百貨店や県庁付近は、その当時広島西練兵場で、今の広島市民球場(現在は跡地)のあたりに護国神社の鳥居が半分に折れて倒れていた。産業奨励館(現在の原爆ドーム)は赤茶けて立っていた。紙屋町を左に折れて、鷹野橋方面へ向かったが、途中に住友銀行や日本銀行の建物が黒く焼け焦げ突っ立っていた。国泰寺のの根元が裂け、枝葉が電車軌道に散らばっており、それを避けながら歩いて大手町の国民学校(現在の大手町中学校)へ辿り着いた。早速持参の昼食を食べ、宿舎の設営にかかった。宿舎といっても材料がある訳ではなく、運動場にあった高鉄棒の鉄を棟に、付近の焦土から拾い集めた鉄材で屋根を作り、焼けたトタンで葺いて急造の宿舎を建て、砂場に荒むしろを敷いて寝るところを確保した。

c0315619_1246323.jpg道路のアスファルトが熔けて軟らかくなり、歩くと軍靴の足跡がつく程の暑さであるから、この程度の設備で充分だ。近くにコンクリート製の防火用水の桶を集めて並べ、板を渡し、周囲にトタン板を立てて便所を作った。また、焼け残っていた五右衛門風呂を2つとドラム缶を拾ってきて、ご飯を炊いたり塩汁を作る炊事施設や風呂を作ったりして作業を終わった。周囲の異臭と今までに経験した事のない猛烈な暑さですっかり参り、殆ど食欲はない。それでも食べないわけにはいかないので、軍から配給された玄米をそのまま五右衛門風呂の釜に入れ、焼け残りの板切れを集めてご飯を炊いた。普通ではとても食えたものではない。それにおかずは何も無いから、川から獲ってきた「あおさ」という青海苔に似た草を入れた塩汁を作り、玄米飯にかけて無理矢理流し込んだ。午後10時を過ぎる頃、激しい夕立。黒い雨だったのか急造の屋根はあちこちから雨漏りを始め、とても寝ている状態ではなかった。やっとあめが上がったが、無理に寝付こうとしてもなかなか寝付かれない。そのうち誰かが、「遠くの方で鬼火が飛んでいる」と言い出した。見ると、あちこちで「ボー」と青白い火がついては消えていく。それが点々とあちこち断続的に続くので、ちょうど火が飛んでいるように見える。とても幻想的で薄気味悪く、息を飲んで見つめていた。多くの人が一瞬にして非業の死を遂げた訳だから、その恨みをこの世にぶっつけているのだろうか。

c0315619_1246423.jpg年寄りから聞いてはいたが、現実に見たのは初めてである。意識が錯乱して、ただ呆然と見続けるだけだった。また続けて遠くの空をオレンジ色の「火の玉」がゆっくりと横切って行ったのも見た。よく聞いた話だが未だもって不思議でならない。とうとうまんじりともせず一夜を明かし、いよいよ復旧作業に当たることになった。全員校庭に集合、小隊長から訓示があった。『本日から復旧作業に入るが、ひとつ皆にお願いすることがある。敵軍はいつ広島に上陸してくるか解らない。それに備えて今夜から歩哨についてくれ』。兵舎から100メートル離れた位置に1名立ち、そこを中心に30メートル以内を動きながら警戒せよと言う。そして怪しい人影を発見すれば直ちに「誰か、誰か、誰か」と大声で3回誰何(すいか)して、3回目に何の応答も無ければ剣を抜いて突入し刺し殺せと言う。全く経験の無い我々にとってはびっくり仰天。でも、やらないではいられない。早速今夜午前2時から、2人1組で1時間交代の勤務に就くことになった。覚悟を決めて就く。作業の記憶は定かでないが、確か第1日目は、宿舎のある大手町国民学校の周囲に巡らされていたコンクリートの塀が爆風で倒れ、その下敷きとなった登校中の生徒を掘り起こし火葬せよというものだった。ツルハシでコンクリートを壊し、下で死んでいる遺体を引き出すのであるが、遺体の状況を喩えると、ちょうど蛙が車に轢かれてぺしゃんこになり、乾いてからからになったようだった。

c0315619_12465258.jpgそれが何人も何人もずらりと並んで下敷きになり死んでいる。皮膚や髪の毛は茶褐色に変色し、服は裂けて、骨が露出している者もおり異臭を放っていた。とても平常では見ておれない。目を覆いたくなる惨状であった。一人一人急造の担架に乗せ、防火用水をためていたコンクリート製のものに焼けた鉄棒を縦横に並べた臨時の火葬台に運び、その上に何十体も横たえて薪を置き、重油をかけて火をつけ荼毘に付した。兵隊の中に僧侶がいて、その人がつきっきりでお経を上げ弔いをした。確かその位置が、現在の平和公園の慰霊塚辺りではなかったかと思う。当時は衣服の棟に必ず住所、氏名と血液型を記入した名札をつけるよう義務づけられていたので、屍体の全てがつけていた。今から思うと、その名前を全て記録しておけば遺族の方に連絡できたのにと悔やまれてならない。そのときはそうした思慮も消え果ててただただ屍体の処理でいっぱいだった。こうした作業をしているうちに、なんだか精神状態も変化して、無神経というか、恐ろしさも、死人に対するむごたらしさも、目にする焼け野原も、鼻を突く異臭も、不思議と感じなくなっていった。異常な神経の持ち主になっていたのではなかろうか。通常の思考力を失った、ただ作業をするだけの機械になっていたのではと反省している。幾体も幾体も焼いて(確か600柱位と聞いている)山のように積み上げた遺骨に合掌し作業を終えた。その遺骨がその後どのようになったか、知る由もない。

c0315619_1247360.jpgその日就寝したが起こされて動硝の任務についた。懐中電灯を左手に、牛蒡剣に右手を添えて30メートルの範囲を恐る恐る歩く。何か「グサッ」と踏んだ。懐中電灯で照らして見ると、首と手足が白骨化し頭と胴体が焼け残った遺体の腹を踏んでいたのである。飛び上がるほど驚いた。思わず「南無阿弥陀仏」と手を合わせ、その場を離れた。ちょうど歩いて廻る範囲に市役所の建物があった。薄暗い明かりの中に薄気味悪く黒々とつったっている。その前に差し掛かったとき、何か「ごそごそっ」と音がして人の気配がする。「すわっ敵襲」と覚悟して剣を抜いて身構え、「誰かっ」と叫んだ。何の応答も無い。「誰かっ」と2回目を怒鳴った。まだ黙っている。いよいよ3回目「誰かっ」と言って飛び付こうとしたら、蚊の泣くような声で「怪しい者ではございません」と答がかえってきた。「ああ日本人か」とほっと胸をなで下ろし」、近寄って「どうしたんだ」と尋ねると、破れトタン板を被ったその下から女の人と子ども2人が顔を出して「私達はこの近所に住んでいたが焼け出され、主人は死に、やむなく市役所の中に寝ていたが、蚊が多く暑くてたまらないので、こうしてここに出ています」と言う。気の毒だがどうしてやることもできない。「気を付けて」と言い残してその場を去った。その人達はその後どうなったか。終戦の日(8月15日)の早朝のことである。その日も暑い日だった。作業を続けていると、昼前になって全員校庭に集合せよという命令がきた。

c0315619_12485430.jpg何事かと思い急いで帰ってみると、台の上に無線用の携帯ラジオが置かれ、小隊長から「正午から重大な放送があるから聴くように」という伝達があった。天皇陛下の玉音放送だという。みんな襟を正し、直立不動で聴き入ったが、音が大きくなったり小さくなったり、また雑音が入って途切れたり、ちょうど波が寄せたり引いたりするように所々がやっと聞き取れる程度で、内容は全く解らなかった。ただ雰囲気で戦争に負けたのだと悟った。小隊長から日本は無条件降伏したのだという意味の補足があり、みんなあ然として暫く声も出なかった。勝てると信じ、苦難を乗り越え、現に今も苦しい作業に挑戦しているではないか。急に力が抜け、そして明日からはどうなるのだという不安が胸を横切る。やがてみんながガヤガヤと騒ぎ始めた。その時小隊長から概略次のような訓示があったと記憶している。『諸君の動揺はよく分かる。小生自身も慚愧に堪えない。しかし現在はこの任務遂行中である。何らかの指令があるまで、このまま作業をつづけるように』。その日は休息を取り、指令を待った。翌日からも作業を続けることになり、私達は福屋百貨店の屍体の処理を命じられた。行ってみると地下の水道が破裂して地下1階が水で一杯になっており、そこに数人の屍が浮かんでいる。すっかり腐乱し、大きく膨れ上がっていて、男女の見分けもつかない。近くに引き寄せるのが大変だ。長い竿を探してきてその先に「鳶口」をつけ、屍体に打ち込み引き寄せようとするが、腐乱しているので引っかからない。

c0315619_12471321.jpg仕方なく肋骨をめがけて打ち込み、やっと引き上げて急造の担架で昨日のところへ運び火葬した。上げるのに手間取って数体の処理で1日を終えた。確かこの日だったと思うが日本銀行が業務を再開し、金の支払いを始めるということになった。翌日我々に銀行内の死体の処理と地下の金庫から金を運び出すという作業の命令があった。行ってみると、1人の女の遺体がうつ伏せになって転がっていた。背中の衣服はちぎれて吹っ飛び、着ていた縦縞のシャツの模様がくっきりと茶褐色に変色した肌に焼き付いていた。裏返してみると衣服が残っておりきれいな肌だった。ねんごろに火葬してあげた。大きな地下金庫から金を出す事になったが、金庫の扉が爆風で前に膨らんでいる。その時は別におかしいとは思わなかったが、後で聞いた所では、強い爆風のため一旦へこみ、また吸い出されて外へ曲がったのだということだった。誰がどのような方法で開けたかは知らないが、開いた中から10圓札が30万圓入った木箱を担いで1階へ上がり、行員に渡して支払いの準備をして貰った。それから、まず市内の足を確保するためだったそうだが、電車軌道の電柱を立てる穴掘りを命ぜられた。私の掘ったのは、相生橋から紙屋町寄りに3つ、ちょうど原爆ドームの前である。その他、中国新聞社の片付けや、駅前から牛田方面への電灯をつけるため電線を引いて歩くなど、復興のためきつい作業を終戦後にかかわらずまじめにやったものだ。8月20日になって軍が解散することになり、全員その場で無罪放免となった。

今にして思うと、知らないこと程怖いことはない。原爆被災の影響が50年経った今もなお、身体を蝕み続け病気を発生させている。その当時、このことが解っていれば果たしてこのような作業に従事しただろうか。知らずに無理矢理やらされていたのだ。やるとしても、こんなやりかたではしなかったのではないか。いずれにせよ、今後こうした戦争、または放射能汚染による被害が起こるような事態は決してあってはならない。かわいい子どもや孫達、またその子どもたち、永遠に続く子孫達に私達のような経験は決してさせてはならないと思う。短い文章の中では被曝の実態はとても書ききれないが、受けた心の傷は今もずっしりと残っており、口には出さねど恨み続けたいと思っている。どのように世代は代わろうとも、こうした事実は忘れることなく子々孫々にいたるまで語り継いで欲しい。これが私の願いである。


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by yoniumuhibi | 2015-08-06 23:30 | Comments(10)
Commented by 机の整理 at 2015-08-06 21:26 x
8月6日から2週間の、広島の光景と臭いなど、なにもかもがそのまま、自分がその場にいたかのように浮かんできて、文章一言一言に目が釘づけになって、読み終えた後、しばらく動けませんでした。たとえば「悲惨」、などといった形容詞ではとても説明できない、原爆の現実を語って教えてくださり、ありがとうございました。印刷して周囲に配ります。
Commented by 机の整理 at 2015-08-06 22:01 x
上のコメントの者です。複製できないとのコメントを確認していませんでした。印刷はせず、周囲の人には、このサイトをみるように勧めます。すみません。
Commented by 愛知 at 2015-08-06 22:05 x
億万が一、許されるのであれば、投稿された内容をいつもお願いしている翻訳会社に持ち込み、何か国語かに翻訳してもらいたいと思いました。名古屋在住の中国人の方が始められた老舗翻訳通訳会社です(無論、そんな勝手な真似はいたしません)。残念ながらデモにくっついて歩くことか、それくらいのことしか私にはできないからです。形容し難い重い記事(投稿)に接してなお、安倍は口をゆがめ、首を振るでしょう。「アジアを解放するための、言わば、言わば、言わば、ひとつのプロセスであったと、そのような認識、をいたしておるわけでございます。こうならないためにも・・・」。寄稿なさったお方の形容し難いお志は何としても引き継がなければ。
Commented by エドガーアランポー at 2015-08-07 02:15 x
ご体験談を有難うございました。
差支えなければ、最後に触れられていた原爆放射能によるお身体の不調、諸症状も知りたく思いましたが、きっとお身体が思うようにならず断念されたことなどの悔しい思い、また差別などの苦しみもおありだったことでしょう。いまなお口をつぐんでおられることが、苦しみの深さの証しだと、推察いたします。
Commented by KISA at 2015-08-07 04:27 x
簡単には言葉が見つかりません。読んでいる間中、目の前にヒロシマがありました。
70年前のこれだけの重過ぎる記憶を、これほど微視的に、生々しく精緻に書き表さずにはおれなかった筆者の当時から今日までのお気持ちを思うと、暗然とします。5段落目に出てくる隊長の「訓示」の言葉、放射能の恐さを知らぬが故の勇ましさが哀れでなりません。そしてにわか仕立の隊員となった人々の、実直な働きようもまた…。
小学校の頃、毎夏歌っていた「原爆許すまじ」。4年生でしたか、講堂で見た映画「裸足のゲン」。暗く重々しい曲の旋律は子供心に不気味で、また昨今、子供には残酷すぎると言われる名作漫画の実写版を見せられ、凍りついた記憶も蘇りました。
戦争とはかくも無惨なもの、経験された方々が存命の間に再び、などという血迷い事はよもやこの国は… そう、長いこと安心しきっていたのは間違いでした。今こそ皆がもう一度、いや何度でも、いつでも、この方の書かれたような真実の記憶に向き合い続けなければいけない。9条を守るという意志も、そこから始まるべきだという思いを強くしました。大変貴重なご証言、有難うございました。
Commented by 私は黙らない at 2015-08-07 06:09 x
胸がつまって、言葉にならない。たった8日間の出来事だが、全ての感覚と思考を停止させなければとても生きていけなったろう。モノのように積み上げられた亡骸を前に、僧侶がせめてもの読経をする姿に、ギリギリの人間の尊厳を見たようで、涙がでてきた。この8日間、筆者のその後の人生にどんなに重くのしかかったことか。筆者が広島入りしたのは、原爆投下の6日後だが、筆者の体も被爆によって蝕まれているということか。今、どうしておられるのだろう。決してスムーズに筆が運んだわけではないだろう。50年間、胸の奥深く、かたく閉ざした記憶、それでも絶対に風化しない記憶だったに違いない。
この方の人生の重さに比べて、安倍チルドレンの「軽さ」に唖然とする。一体、どういうことか。どういう教育を受けてくれば、武藤某のような若者になるのか。国会議員の前に、一人前の成人としておかしくないか。教育とは、一流大学へ入れることではなく、例えば、このような先人の体験したことを、真摯に受け止め、素直に涙できる人間の心を育てることではないか。
常々梅さんが言っておられる、議員にも最低限のテストを課す提案に付け加えたい。候補者にこのような課題文書を与え、小論文を書かせる。それを候補者が読み、投票の際の参考にする。この方の貴重な体験談、あの武藤某が読んで書いた小論文、是非読みたい。
Commented by 七平 at 2015-08-07 12:21 x
拝読させていただいた書簡、実話である事がありありと伺えます。そこには、一抹の脚色も誇張も伺えず、断片的な記憶の中から、目撃された凄まじい状況が伝わってきます。私の祖父の妹は広島市内でオートバイ販売店を経営していた家に嫁いだのですが、原爆の投下地に近い所に、店も住まいもあったのでしょう。娘2人も含め、家族全滅となったと聞いています。 このような記事を読むに付け、皆、苦しむ事無く瞬時の安楽死であった事を祈ります。私自信は昭和27年生まれで、戦争を知らない世代と自覚していたのですが、現代の若者に比べると戦争の実話を聞く機会は多くあったようです。 祖父は満鉄勤務の経験がありましたし、父は関東軍、母も将校の妻として同伴を許され、両親は終戦を満州で迎えました。日本に戻る途中には生大豆を水で柔らかくして、飢えをしのいだ、血便がでて、もうだめだと思う時もあった等の断片的な話は聞いていました。父から聞いた日本の軍隊内での”いじめ”の話は私の幼心に深く印象に残っています。ある時、父は余りに酷い”いじめ”を見て、目に余って止めた事があった、気になって翌日、調べたらいじめられていた人は”病死”と報告されていた、と聞き覚えています。 実話を離れて、私の印象に残っているのは、高校時代に読んだ、”人間の条件”です。特に日本の軍隊内でのいじめの描写は父の実話を連想させます。日本のマスコミは政府の圧力に屈して御法度扱いの映画として放映しないかもしれませんが、Youtubeにその映画がUploadされています。私の祖父や両親が経験した満州の様子を端的に伝えているのではないでしょうか。https://www.youtube.com/watch?v=9dezkOs9jCQ&list=PLUtT8G742LZvqlGxT9IcylDpWTzzv7oE_  戦争 はとても美化できるような代物ではありません。
Commented at 2015-08-07 21:26 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 梅子 at 2015-08-10 17:39 x
全ての武器は残酷だが核兵器の残酷さは桁が違う。

長崎原爆忌での被爆者谷口さんの訴えは魂からの訴えであることがよくわかり聞いた人ほとんど(世の中には例外的に変な人もいる、ネット上ではそういうのが大きな声でがなり立てている)が心えぐられる思いで聞いたことであろう。よく今まで生きてくださった。この事実を世界に伝えるために谷口さんは生きてこられたのだと思った。

ついこの間まで日本の右傾化は留まる事を知らず、悲惨な戦争体験を語ることすら反日と糾弾されんばかりの勢いだった。よく覚えているが2010年NHK朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」で水木しげる先生ご自身の実体験を放送した回が放送された時ネット上で狂ったようにウヨどもがNHK批判をやっていたものだ。水木先生がドラマの主役級の話ならば「徴兵され南方に行って片腕を失う重症を負った」というエピソードは避けて通れないものであろうに。別にイデオロギー的に声高に反戦を訴えるというものでもなかったのに、単なる戦争に行った人の経験談すら「反日」と徹底的に糾弾されるものだったのだ、本当に恐ろしい時代であった、まだ完全には抜けていないが。
その結果安倍政権が誕生し、メディア弾圧を好き放題やらかして、日本を攻撃していない国に出かけていって戦争するというとんでもない法案を出してくるまでになった。が、さすがにそこまでやると国民は目覚めたようだ。護憲派が過半数になってしまったというニュースは安倍を傀儡に仕立てて日本を戦争ができる国にしようとしたチームの負けだ。巻き返しは当然あるだろうが、私たちも負けてはならない。
今年の夏は平和についていっぱい考えた。そして憲法九条がある国に生まれた幸せを思う。基本的人権の尊重も・・この何十年何と幸せな国であったろうか、日本は。これからもずっとこの幸せな国でありたいと心から願う。
Commented by 梅子 at 2015-08-10 18:47 x
昔広島に住んだことがあり、八丁堀も紙屋町も福屋百貨店も良く知っている。福屋はそごうや三越より良いものが揃っているということでお気に入りの百貨店だった。日銀は広島アンデルセンだろうか、広島アンデルセンは旧日銀の建物だったと聞いていた。私が知っている光景はもちろんこんな地獄絵図ではなく平和で豊かな広島だった。広島アンデルセンは当時は東京にもないくらいの日本一と言って良い垢抜けたベーカリーだったはず、石造りの建物は元々は旧日銀の建物だったと聞きヨーロッパを思わせるような佇まいで、そこのレストランのシェフはローマ法王の食事も担当したと聞いた。
それはバブル真っ最中の思い出でその数十年前の地獄絵を思えば複雑な気持ちになる。しかしやはり広島は8月6日の8時15分になれば静かな祈りに包まれる町だった。
様々なことを思い出す記事ありがとうございます。


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