『あたらしい憲法のはなし』の中に「立憲主義」の単語がない事実

c0315619_1519812.jpg憲法を守るということはどういうことか。「憲法を守る」という日本語には二つの意味がある。一つは遵守する(observe、follow)の意味であり、もう一つは防護する(defend、guard)の意味である。「憲法を守ろう」と言うとき、この二つの意味の違いがあることに、今日、われわれはどれほど自覚的だろうか。こういう問題提起をどうしてするのか、その動機は、言うまでもなく立憲主義の問題にかかわり、その言説と観念にかかわってくる。私はこの問題に拘る。当世、立憲主義の意味として言われるところの、「憲法は国家が守るもので国民が守るものではない」という常套句は、「憲法を守る」の二つの意味から前者をオミットし、後者の一つだけにフォーカスしてしまっている。そうした思想状況が現実に存在することについては、多くの人に同意していただけるだろう。今年の憲法記念日の東京新聞でも、澤地久枝と竪十萌子が登場した特集面に、「憲法は国民を縛るものではなく、権力に歯止めをかけるものです」とメッセージが見出しされている。今、護憲派が憲法の意義を説得するとき、最初に訴えるコンセプトは立憲主義であり、立憲主義が護憲の看板になり支柱となった。observe the laws や follow the rules の側面は、護憲派の憲法観から全く捨象されるようになった。果たして、本当にそれでよいのか。憲法についての認識と態度として正当だと言えるのだろうか。



c0315619_15191926.jpg1989年1月の即位のとき、天皇陛下は「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い」と言っている。この宣誓は、憲法99条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」に則ったものだが、この「皆さんとともに日本国憲法を守り」の「皆さん」は、大臣や議員や裁判官ほかの公務員のことを指すのだろうか。立憲主義を言い上げる者たちが常識のように言うところの、憲法擁護義務のある公務員だけが意識されているのだろうか。そうではあるまい。天皇陛下が「皆さんとともに日本国憲法を守り」と言ったときの「皆さん」の念頭にあるのは、まぎれもなく主権者である国民のはずだ。この国の主権者であり、憲法を制定した主体であり、即位式の言葉をテレビのニュースで聴くであろう国民こそ、「皆さん」の中身に他ならない。天皇陛下の即位式での宣誓を聞くとき、天皇陛下の憲法観の中に、「憲法は国家が守るべきもので国民が守るものではない」という要素が介在するとは思えない。81歳の明仁天皇は、われわれよりもはるかに憲法に熟知し精通した教養人に見えるが、「憲法は国家が守るべきもので国民が守るものではない」という認識の持ち主ではないだろう。なぜなら、憲法は国家の最高法規であり、国民が守るルール(規則)だからである。

c0315619_1519326.jpg手元に、童話屋の『あたらしい憲法のはなし』がある。以前、筑紫哲也がNEWS23で紹介していて、読みたくて探していたら、本屋で文庫になって出ていた。Amazonでも入手できる。1947年に文部省が発行した中学校1年用の社会科の教科書で、1952年まで使われていて、まさに戦後民主主義の学校の教科書である。天皇陛下も、きっと学習院中等科で、院長の安倍能成からこの教本の授業を受けたことだろう。有名な「六 戦争の放棄」の章にはこう記述がある。「みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送り出された人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。(略)そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました」。

c0315619_15194254.jpg「その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは戦力の放棄といいます。『放棄』とは『すててしまう』ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません
」(P.31-32)。すべて引用したいが、また別の機会にしよう。指摘したいのは、この『あたらしい憲法のはなし』の中に、立憲主義の語が一度も登場しないという事実である。日本国憲法が制定された直後、その意義と価値を中学生に教えようとする教科書に、立憲主義という言葉が一度も出ず、立憲主義の考え方が説明されていない。このことは、今日、立憲主義を日本国憲法の代名詞のように思っている若い世代には、相当に意外な新発見なのではないだろうか。われわれの時代の社会科の教科書にも、憲法を説明する章の記述に立憲主義の語はなかった。小学6年、中学3年、高校3年、大学1年(教養講義と基礎法演習)、大学2年(専門講義)と、ずっと憲法を学んできたが、日本国憲法が立憲主義のキーワードで説明された経験は一度もない。その言葉は、例えば立憲改進党とか、明治時代の自由民権運動の歴史に所属する概念で、日本国憲法とは無縁だった。

c0315619_15195399.jpgところが、例えば日弁連のサイトを見ると、「憲法って、何だろう」と題したページに次のように書いている。「このように、国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを『立憲主義』といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です」。日弁連の概説では、憲法についての最も基本的な中核概念が立憲主義だという教義になっていて、何はなくとも立憲主義だという有無を言わせぬ説明になっている。若い世代が68年前の教科書(憲法読本)における立憲主義の不在に驚くように、われわれロートルは、この日弁連の憲法講釈に目を白黒させざるを得ない。68年の時間の流れとは大きなものだ。「憲法は国家が守るもので国民が守るものではない」という言説は、このBlogを立ち上げた当初から、護憲派の面々によって頻繁に言われたもので、私はこの議論にずっと違和感を覚え続けてきた。いつからそんな学説になったのだろうと、怪訝に感じてきて、一昨年、96条をめぐる政局と論議のとき、その周辺(わが国の憲法学の理論の流れ)について集中的に調査、ようやく一つの仮説を立てることができた。犯人は樋口陽一だった。立憲主義のエバンジェリストは樋口陽一で、立憲主義で憲法を基礎づける今日の定説は樋口陽一が確立したものだ。1990年代のことである。だから、立憲主義で憲法を説く教説は新しく、われわれの世代には耳新しい話だったのだ。

c0315619_1520426.jpg「憲法は国家が守るもので国民が守るものではない」という主張のどこが問題か。前に論じたことがあるかと思うが、この論理で憲法を定義すると、例えば、教室で、職場で、家庭で、憲法は守られなくてもよいことになってしまう。学校、会社、組合、地域、家庭、クラブ活動、駅や電車の中、等々が、憲法を守る主体のいない社会空間になってしまう。憲法と切離される。国家機関と無縁な、公務員のいない市民社会や人間集団が、ルールとしての憲法の効力が及ばない社会空間に疎外されてしまう。会社の就業規則、学校の校則、自治会の規約、クラブの会則等々が、憲法の制約を受けないものになり、日本国憲法で定められた原理原則から逸脱していてもよいという見解や判断が成立する。果たして、それでよいのだろうか。1970年代、革新勢力は「職場に憲法を」というスローガンを掲げて労働者の権利を守る取り組みをやっていた。会社の中にも言論の自由があるのだという主張であり、思想信条や門地や性別等によって不当に差別されないという訴える立場からの憲法論である。正論だろう。家庭は最小単位の社会であり、その中で生きる小さな子どもの人権が親によって侵害されることがあってはいけない。当然のことだが、その規範はどこから根拠づけられるのか。憲法でなくて何なのか。親は家庭という社会の中で憲法を守って社会運営しないといけないのである。家庭の人間関係にも憲法は及ぶ。

c0315619_15201793.jpgそもそも、ルソー的な思考と発想を辿るならば - それが憲法論の常識だと思うが - 憲法はホッブズ的な自然状態を脱するべく市民の個々が社会契約したところの最高法規である。市民が自分たちのルールとして憲法を取り決めて(契約して)いるのであって、ルールを守るのはルールを決めた市民ではないか。「憲法は国家が守るもので国民が守るものではない」という観念が定着すると、国民は憲法を守る主体ではなくなり、社会規範としての憲法の意味が根底から崩れてしまう。日本国というアソシエーションを結成して生きる個々のシビルの内面に、憲法の理念が碇づけられる必要や契機がなくなる。それでよいのか。立憲主義の言説は、現在、安倍晋三たち極右権力による憲法破壊から憲法を守る説得力として政治的に有効に機能しているけれど、同時に、憲法を国民の意識から遠のかせ、憲法と個々とを結びつける理念や規範を見失わせるマイナスの方向にも導いている。その副作用も見逃せない。憲法は、国家の最高法規であると同時に、市民社会の基本法である。憲法は国民全員が守るべきルールだ。したがって、法律や条令や省令が憲法に正しく準拠したものでなくてはならないだけでなく、企業や学校の規則や会則も憲法に則ったものでなくてはならず、憲法違反のものがあってはならない。そうでないと、実際の社会の現場で基本的人権は守られない。私は、別に、天邪鬼的な趣味で敢えて偏屈な議論を言挙げしているのではない。

護憲の立場や立論というものが、時代の流れの中でゆらゆらと変わるということに懸念を覚えるだけである。両陛下の護憲論は、今の流行の立憲主義のテーゼとは無縁のもので、戦後民主主義の時代の憲法観そのものであり、国民も憲法を守る主体であるという認識だ。私もその立場に立つ。


c0315619_15203339.jpg

[PR]
by yoniumuhibi | 2015-05-08 23:30 | Comments(5)
Commented by 愛知 at 2015-05-09 01:53 x
青文字引用の箇所、素晴らしく。本当に涙が。ひらがなの持つやさしさも発見。目で追ううち、今上陛下のお声に感じられ・・・。早速アマゾンをクリックしましたが、「一時的に在庫切れ、入荷時期は未定です」でしたが、レジだけ済ませ。素晴らしい書籍のご紹介に感謝。涙ぐむうち、BGMは山口百恵の『秋桜』。「明日、嫁ぐ私に」は「明日、戦地へと」に変わりそうな今。はーあ。日弁連もいろいろですね。「人生いろいろ、会社もいろいろ。」続けて言うなら憲法、ボロボロ。ビジネス界隈(生業)だと、第21条第2項なんて、ほんと、ボロボロ。会社に届いた個人宛の封書=開けても構わない⇒上司の前で開ける⇒すべて開けなかればならない。開けるのが当然のご時世。そんな輩に限って、反社(嫌なことば)に特別待遇。それを詰ると、決まって持ち出すのが基本的人権。『あたらしい憲法のはなし』は、チビ孫たちに遺します。
Commented by Emmylou at 2015-05-09 02:02
>憲法は国民全員が守るべきルールだ。したがって、法律や条令や省令が憲法に正しく準拠したものでなくてはならないだけでなく、企業や学校の規則や会則も憲法に則ったものでなくてはならず、憲法違反のものがあってはならない。

おっしゃるとおりです。憲法はもちろん国家権力を縛るもので間違いないけれど、当然国民も、憲法の精神を遵守する使命がある。
渋谷区で同性PSが可決されてから、「同性婚」を推進しようという動きが、主にリベラル系を中心にはじまっています。そして、タレントの女性カップルが、区役所に結婚届を出しに行き、役所から「同性なので受理できません」という理由で着き返された、というニュースが流れました。「同性婚」は、憲法24条の「婚姻は両性の合意にのみ基づき」という条文により現憲法では否定されています。しかしそれを、「憲法は同性婚を禁止していない」と主張し、いわば解釈改憲を試みる言説が、リベラル、左派、フェミニズムサイドから流れてきます。
Commented by Emmylou at 2015-05-09 02:02
続きです。
これはもし認めてしまうんなら、、憲法9条の軍隊保持の放棄という条文と、自衛隊という軍隊を持っていることとの矛盾とまったく同じ事だと思うのです。「自衛隊は軍隊ではないから憲法には矛盾しない」から、「個別的自衛は戦争の放棄とは矛盾しない」となり、やがて集団的自衛権も解釈により可能だというところまで拡大されたように、条文を恣意的に拡大解釈することは、憲法をなしくずしにし、骨抜きにし、やがて「改憲してもたいしたことない」という空気、イメージにしてしまう第一歩ではないでしょうか。
九条改憲に反対するリベラル勢力、左派は「平和護憲主義」といわれますし、そう自認しているでしょう。その左派リベラルが、この「同性婚」については、その推進・容認に向けて憲法条文を、その文章のままに受け取らず、勝手な解釈を加えて改竄することにためらいがないのです。
この恐ろしい無頓着ぶり、憲法を遵守しようという意識の低さ、そんな都で国家権力の軍国主義者から、憲法を守ることが出来るんでしょうか。
同性婚についてもそうですが、こうした矛盾した態度は、しばしば護憲派の中に見られることで、平和護憲派は本当に憲法を守ろうとしてるんだろうか。九条など、守りたい条文だけ都合よく守ろうとしているだけで、気に入らないところは改憲派と同様、別に守らなくてもいい、と考えているのではないか。
どうしてそんな矛盾した姿勢でいられるんだろう。と不思議でいたところ、「世に倦む日々」さんの、「国民が憲法を遵守しようという意識が低い」という意見を読んで、「なるほど、国家権力は憲法を守らねばならないが、一般国民は憲法を守る必要はない」と考えているのか、と気づきました。一般国民は、都合が悪かったり気に入らなければ、憲法を遵守する義務はないとばかり、同性カップルの婚姻届を喝采し、不受理にした役所を杓子定規だと中傷し、「同性婚は世界の常識!可能になるよう運動していこう」などとシュプレヒコールをあげる。同性婚が世界の常識、だから日本も認めろ、という主張は、軍隊保持は世界の常識!九条破棄して「普通の国」に!という改憲主義者の主張とまるっきり同じではないですか。
わが国の護憲勢力がどんどん先細りしていく理由がわかった気がします。これもひとつの「脱構築」の毒がまわっているのだと。
Commented by さくら at 2015-05-09 02:09 x
私も憲法は日本国民が守るべきものと教えられてきました(政府は日本国民から成りますから、政府が憲法を守るべきなのは当然です)。立憲主義が言われ出したのが1990年代というご指摘は、なるほどその頃からかと思い当たる気がします。立憲主義を否定はしませんが、やはりそれは憲法の一側面でしかないと思います。

I hereby declare, on oath,・・・
that I will support and defend the Constitution and laws
of the United States of America against all enemies,
foreign and domestic,

例えば、米国の市民権を得るときの帰化宣誓には上記のような「私は憲法を遵守し防護する(≒守る)」という文言があり、また日本の帰化宣誓書にもこれと似た文が記されているようです。民主主義国の国民としては必須の宣誓でしょう。国民が主権者である民主主義の国で、国民に憲法を順守し防護する気がないのなら、憲法が憲法として実効するはずがありませんから。
Commented by ijkl at 2015-05-13 22:23 x
立憲デモクラシーの会がやっと重い腰をあげて、シンポジウムも開くみたいです。twitterなどで、「何も声明を出していない」と指摘されていたのが効を奏したのかも知れません。しかし、やはり看板は「立憲主義」です。樋口陽一氏が、共同代表についたので仕方がないのかも知れませんが。ここは、是非シンポジウムに参加して下さり、政治的劣化を促した山口二郎氏に一言「反省しろ」と喝を入れて戴きたくお願い申し上げます。


カウンターとメール

最新のコメント

左派が、前原をほめるなど..
by 前原より小池 at 21:21
続き: ◆ 視点をアメリ..
by NY金魚 at 12:35
数カ月前の当ブログに「慰..
by NY金魚 at 04:11
細野氏の三島後援会の会長..
by 一読者 at 19:15
優れた日本型システム ..
by 優秀な日本型システム at 16:12
本当に仰る通りだと思いま..
by liberalist at 00:12
そうでした。「民主」と言..
by 長坂 at 23:45
私たちの世代(60代)に..
by ametyan at 11:04
稲田が辞任しましたね。晋..
by ロシナンテ at 13:19
TWされている通りだと思..
by 長坂 at 11:47

Twitter

以前の記事

2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月

記事ランキング